バレーボールPRESSBACK NUMBER
思い出した石川祐希が涙を流した日。
セリエAミラノ移籍に秘める覚悟。
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byKiyoshi Sakamoto/AFLO
posted2020/06/12 11:40
イタリア・セリエAのミラノ移籍を発表した石川祐希(中央)。不安や心配はあると語るが、世界トップレベルのリーグでその技を磨く。
大学3年で「やっぱり海外でやりたい」
ふと、石川が大学4年生だった時のことを思い出した。
一度だけ、石川が涙を見せたことがある。中央大学4年の全日本インカレの時のことだ。
それは、一度は「出ない」と決めた大会だった。
大学3年の時、イタリアに再挑戦した石川は、今度は試合に出られることを優先して下位チームのラティーナを選んだ。しかしあくまでも大学の試合が優先だったため、大学3年の全日本インカレを終えてラティーナに合流した12月には、すでにレギュラーシーズンの約半分が終わっていた。そこからチームに馴染み、レギュラーを勝ち取るのは容易くない。チャンスをものにしながら徐々に出場機会を増やし、レギュラーをつかんだのはシーズン終盤だった。
「途中からの合流になったのは痛かったなと感じました。もう2回目はない。シーズン途中からの合流だと、もうどのチームも獲ってくれないし、試合に出られないので、次の年はやっぱり最初から、10月のリーグ開幕から行きたいと思いました。大学のチームのこともあるので、もちろん迷いましたけど、最終的に、やっぱり海外でやりたいから」
ラティーナで熟考した結果、翌年の大学4年時は、大学の秋季リーグや全日本インカレには出場せず、夏場の日本代表の活動が終わればすぐにイタリアに渡ろうと決めた。
「日本にとどまる選手じゃない」
毎年12月に行われる全日本インカレは、大学日本一を決める、その代の最後の大会であり、特に4年生にとっては4年間の集大成だ。しかも中央大は石川が1年生の時から全日本インカレを3連覇しており、翌年は4連覇がかかっていた。
その大会に「出ない」と決めた。いちアスリートとしてのキャリアを第一に考えた、ある意味ドライな、“プロ”の決断に見えた。
大学3年の2月、石川はラティーナから中央大の同級生たちに連絡をとり、思いを伝えた。
星城高校からチームメイトだった武智洸史(JTサンダーズ)は、「オレたちのことは気にせず、頑張れよ」と答えた。
「祐希は、日本に、大学バレーにとどまる選手じゃないし、次元が違うと思っていたから。それに自分自身、祐希に頼りがちになっていたので、祐希がいない中でもチームを勝たせられるようになるいいチャンスだと思ったんです」と、のちに武智は振り返った。
他の同級生たちも石川の決断を後押ししてくれた。