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あの日、マイク・タイソンは乾いていた。
「衝撃の東京ドーム」を見た2人の証言。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byMikio Nakai/AFLO
posted2020/06/14 19:00
1990年2月11日、ダグラスにKO負けを喫したマイク・タイソン。意識が朦朧とする中、マウスピースを咥えて立ち上がったが……。
2度目の来日となった1990年。
それに比べると、1990年のタイソンはやはり乾いていた。王者は2年ぶりに今村の顔を見ると、前回と同じようにいたずらっぽく笑ってボディーブローを打ってきた。タイソン流の親しみの表現で、とても痛かったが、どこかうれしかった。
当時、タイソンのアテンドなどを担当していた東京ドーム興行企画部長の秋山弘志は王者にアメリカン・エキスプレスのプラチナカードを見せてもらったのを覚えている。まだ日本では誰も持っていなかった。
「飛行機だって買えるんだぜ」
そう言ってタイソンはホテルの高級ブティックで買い物にふけっていた。常に3人のボディーガードがついていた。ファイトマネーは10億を超えていた。王者の冠はこれ以上ないほど装飾されていたが、何かがおかしかった。ジムワークでは圧倒的なスピードが見えず、試合10日前のスパーリングではダウンを喫した。インタビューでは周囲に気遣いを見せるようになっていた。
「優しくなっていたというより……、どこか野性が失われている感じがしました」
この頃、タイソンは多くのトラブルを抱えていた。莫大な財産を奪おうとする妻ロビンとの離婚問題、マネージャーとの離別、確執と裏切りの数々……。「もう、この試合で最後にしようと思う」と引退を示唆したこともあった。誰も信じることができない一人ぼっちの王様は戦いに疲れ果てているように見えた。今村が2年前に見た影はさらに色濃く、タイソンを蝕んでいた。
それでも試合の焦点は1つだった。タイソンがオハイオ生まれの挑戦者ジェームス・ダグラスを何ラウンドでKOするのか。それだけだった。王者のあまりの強さゆえ、試合のチケットは完売にはならなかった。また、2年前のように6分足らずで終わってしまうと思われていたからだ。中継を指揮する今村でさえ、そう考えていた。
挑戦者ダグラスの左ジャブ。
2月11日。東京は季節外れの暖かさだった。ゴングを前に今村はドームの外に停めてある中継車に乗り込んだ。すべての映像が見られる無数の画面と、それを切り替えるボタンが目の前に並んでいる。会場にスタンバイした十数台のカメラと音声マイク全てにインカムが通じ、今村の言葉は全スタッフに届くようになっていた。
「早いラウンドで終わるかもしれないぞ。どんな細かい動きも見逃すな」
今村の声に緊張の糸がピンと張り詰める。午後12時27分、ゴングが鳴った。
第1ラウンド、最初にパンチを当てたのは挑戦者ダグラスだった。2分過ぎに左ジャブがタイソンの顔面をとらえた。
「ボスッ!」
鈍い音がした。今村にはタイソンの全てが緩んで見えた。肉体も、スピードも、オーラも。かつてないその姿を見て、思わず全員に通じるマイクにつぶやいた。
「おい、タイソンやべえぞ……」