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あの日、マイク・タイソンは乾いていた。
「衝撃の東京ドーム」を見た2人の証言。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byMikio Nakai/AFLO
posted2020/06/14 19:00
1990年2月11日、ダグラスにKO負けを喫したマイク・タイソン。意識が朦朧とする中、マウスピースを咥えて立ち上がったが……。
リングの上にこそ真実がある。
津江章二はリング下に設置された記者席の一番端に座っていた。第2ラウンド、動きの緩慢なタイソンがダグラスの右をもらった。王者の顔面が歪んだ。
「あんなにパンチをもらうタイソンを見たのは、初めてでした」
共同通信社運動部に入って19年、ほとんどの世界戦を見てきたベテラン記者は胸騒ぎを覚えていた。
津江をボクシングの虜にしたのは1959年11月、矢尾板貞雄が名王者パスカル・ペレスに挑戦したタイトルマッチだった。津江家ではその年、初めてテレビを購入した。食事を済ませ、風呂に入り、白黒画面の前に家族全員が座布団を並べた。
試合は矢尾板が最初にダウンを奪った。日本人王者誕生かと誰もが期待に胸を膨らませたが、勢いに乗って出て行ったところに王者のカウンターが待っていた。当時、東洋に敵なしだったテクニシャンが倒された。家族みんなが落胆する中、津江だけは身震いするような感動を覚えていた。
「あの矢尾板が負けたのは驚きましたが、僕はそれ以上に技術の凄さ、カウンターの美しさに目を奪われました。ワンパンチで人生が変わってしまうボクシングの厳しさと儚さ。それからはずっとリングの上にこそ真実がある、と思ってきました」
最後に立っていられるのは美しき技術を持つ者のみ。つくりものが入り込めない残酷なまでの事実がリングにはあった。それが津江の心を捉えて、離さなかった。
「事実は小説より奇なり、と言うでしょう。僕は本当に事実というものが面白くて仕方がないんです」
津江は普段、小説を一切読まない。ひたすら「事実」を追いたくて記者になった。入社後はボクシングを担当し、あらゆる試合を追いかけた。他の記者は数年ごとに担当を変わったが、津江だけはプロ野球など他の担当をしながら、ボクシングのタイトルマッチには優先的に取材に行っていいという特例の許可をもらっていた。
「濃密な鍛錬」を感じた防御力。
そんな'80年代後半のある日、暇ネタを探していたデスクに聞かれた。
「なんか、海外ボクシングの話題ないか?」
津江はデスクの脇に積まれた外電を探してみた。すると、ほとんどの記事に1人のボクサーのことが書かれていた。
「このマイク・タイソンっていう選手どうですか?」
「何? タイソン? 聞いたことねえなあ」
津江は記事を書くために映像を見た。衝撃だった。人々は獰猛なKOシーンに熱狂したが、津江が惹かれたのはむしろ磨き抜かれた技術だった。名伯楽カス・ダマトが叩き込んだピーカブースタイル(グローブを顎の下につけ、相手を覗き見る構え)から小刻みに頭を振ってパンチをかわすと、瞬時に踏み込んで豪打を爆発させる。
「パワーはもちろんですが、何よりパンチをかわすテクニックが素晴らしかった」
タイソンが一度もダウンすることなく勝ち続けられたのは濃密な鍛錬が生んだ守備力ゆえだと考えた。認定団体が乱立し、チャンピオンが何人も出現し始めた時代にあって、紛れもない「本物」だった。幼い頃から憧れていた美しき王者がそこにはいた。