降りてきたタイソンがポツリ……。

　その頃、今村はホテルニューオータニにいた。ロビーは前日までの騒ぎがウソのように静かだった。試合が終わってからずっとあのシーンが頭から離れない。リングを這い、マウスピースを拾うタイソン……。

「あの時、おそらく意識がなかったと思うんです。それなのに本能的にマウスピースを拾った。それがすごく頭に残ってて……」

　蔑まれた少年時代の恐怖がそうさせたのか。どれだけ心が擦り切れても、リングでしか生きられなかったのだろうか。

　エレベーターが開き、タイソンが降りてきた。左目が大きく腫れていた。顔を合わせても、いつものようにボディーブローを打ってくることもなかった。ただひとこと、ポツリと言った。

「See you……」

　この時、今村は何も言えなかった。

「言葉が出てこなかったんですよ。なんか人間っぽくなってしまったな、と。それが寂しくて。人生の無常観を感じました」

　王者でなくなったタイソンは顔にガーゼを当てたまま去っていった。見送った今村の胸には不思議な感情が芽生えていた。

「なぜですかね。この後、変な事件に巻き込まれて死んでしまうんじゃないか、と思ったんです。強さと弱さのギャップというか。そういう危うさは常にありましたね」

　その予感は少なからず当たった。日本から帰った後、タイソンは人生を転げ落ちていった。レイプ容疑で収監され、再起後も対戦相手の耳を噛みちぎる凶行でライセンス停止処分を受け、麻薬で逮捕された。東京で初めて負けたあの日、ボクサーとしてのタイソンは“死んだ”のだ。

　今村が見たのはどうしようもないほどの強さと弱さだった。

探していたものは見つけられただろうか。

「僕はタイソンというのは、カス・ダマトが死んだ後、愛を満たすことができなかったんじゃないかなと思うんですよ。心の空虚さをボクシングで埋めようとしていた。でも、どんなに強くても、すべてを手にしても、愛への欠乏感は消えなかった」

　人生で唯一、愛をくれた人はチャンピオンになる前にこの世を去った。そこからタイソンが探していたのは自分を受け入れてくれる場所だったが、人々が求めたのは恐怖と怒りが生み出す野獣の姿だった。殴れ……。壊せ……。拳を振るうたび大金と引き換えに自らの尊厳を失っていくようだった。札束でも、美女でも、麻薬でも、心にぽっかりと空いた穴は埋めることができなかった。欲望と復讐心だけで人は戦い続けることはできない。乾ききった野獣は疲れ果て、東京のリングに沈んだのだ。

　あれから27年が経とうとしている。タイソンは'05年に引退し、ニューヨークで暮らしている。探していたものは見つけられただろうか。あの時代、実体なき景気に浮かれていた日本に、無類の力と空虚な心を抱えたチャンピオンがやってきた。その一部始終を目撃した今村は今も、東京の空の下で幼い頃と同じ問いかけをしている。

　本当の強さとはなんだろうか。

（Number920号『［運命の1日完全再現ドキュメント］マイク・タイソン 衝撃の東京ドーム』より）