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あの日、マイク・タイソンは乾いていた。
「衝撃の東京ドーム」を見た2人の証言。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byMikio Nakai/AFLO
posted2020/06/14 19:00
1990年2月11日、ダグラスにKO負けを喫したマイク・タイソン。意識が朦朧とする中、マウスピースを咥えて立ち上がったが……。
大論争を生んだ、幻の10カウント。
第6ラウンド。劣勢のタイソンは思い出したように両拳を顎に当て、ピーカブースタイルで構えたが、津江をうならせた小刻みな頭の動きはない。ただ突進するだけのチャンピオンはダグラスのジャブにいいように打たれ、左目はふさがるほどに腫れていた。「頭を動かせ!」が口癖だったカス・ダマトが死んで5年、美しきタイソンのボクシングは完全に消えていた。
たまらずセコンドが指示を飛ばす。
「マイク、動け! ジャブを打つんだ!」
王者は力なく頷くだけだった。
第8ラウンド。後に大論争を生むシーンが訪れる。残り5秒、ダグラスにロープへ詰められていたタイソンがわずかな隙を狙ってアッパーを繰り出した。挑戦者の顎が跳ね上がり、象のような巨体がキャンバスに崩れ落ちた。一瞬のことだった。東京ドームはそれまで沈黙していた鬱憤を晴らすかのような大歓声に包まれた。
ダグラスが倒れたと同時にリング下のタイムキーパーがカウントを開始した。通常レフェリーはこれに合わせなければならないが、キーパーがカウント「4」に差し掛かろうという時、メキシコ人レフェリーは、なぜか「1」から数え始めた。
ダグラスは片膝をついたまま少し息を整えるとカウント「9」で立ち上がった。すでに倒れてから13秒が経過していたが、そのままラウンド終了のゴングに救われた。
第9ラウンド。タイソンは開始のゴングと同時につめ寄ったが、パンチが続かない。もう野獣らしさはどこにもなかった。逆にダグラスが猛然と打ち返す。タイソンがロープに釘付けになった。再びドームが悲鳴に包まれた。これまでダウンを知らない男の足元がグラグラと揺れていた。何とかゴングに救われたが、それは、ただ数分間生き延びたに過ぎなかった。
この時、津江は確信した。タイソンが負ける――。急に胸がドキドキしてきた。
「タイソンが負ければ、世界的なニュースですから。そう思ったら怖くなってきた」
負けは明らかだった。なのになぜ……。
そして第10ラウンド、1分過ぎ。ダグラスがアッパーを突き上げる。今度はタイソンの顎が跳ね上げられた。体の制御を失った王者の顔面に挑戦者の無情の拳が突き刺さる。右、左、右、左。タイソンは背中からゆっくりとマットに倒れていった。
「ドォン!」
津江の目の前にタイソンの頭が落ちてきた。口からマウスピースがこぼれ落ちた。5万人が声を失った。そして、誰もが思った。タイソンはもう立ち上がれない、と。
だが、その男は混濁する意識の中、左手でキャンバスを掴むと膝を突いた。這ったままマウスピースを探すと、それを右のグローブで掴み、咥えたのだ。なぜ、立てるのか。津江は身じろぎもできず、それを見ていた。なぜ、立とうとするのか。今村は画面に映し出された光景に戦慄した。
ようやく立ち上がった時、すでにカウント10を数え終えたレフェリーがタイソンを抱きかかえ、両手を大きく振った。隣で挑戦者ダグラスが拳を突き上げていた。
リング上の混乱が少しおさまった頃、津江は記者席を立ち、会見場へと向かった。壇上にはWBA、WBCの両会長がいた。明らかに様子がおかしかった。
「タイソン側から8回のレフェリーのカウントに疑義があったという提訴を受けた。その結論が出るまで、誰が新チャンピオンなのかは言えない」
すると両会長の隣で、白髪を天に向かって逆立てた男がまくし立てた。
「レフェリーのミスは明らかだ! マイクの8ラウンドKO勝ちだ!」
その異様な男の名はドン・キング。多くのヘビー級ボクサーのプロモーターとして君臨していた。殺人罪などで幾度もの逮捕歴があり、生前、カス・ダマトが「絶対に組んではいけない」と警告していた。そんな男とタイソンは手を組んでいた。 ドン・キングはタイソンの次の相手をランク1位のイベンダー・ホリフィールドと決めていた。東京での試合は、莫大な金が動くビッグマッチの“前座”だった。敗戦をもみ消そうとする裏にはそんな事情があった。試合の無効を激しく主張するドンに対し、両団体の会長は沈黙していた。
「なぜ、ドン・キングにこんな力が……」
津江の心に怒りがこみ上げてきた。リング上の真実をリング外の人間が握りつぶそうとしている。確かにロングカウントはあったが、タイソンの負けは明らかだった。会見は勝敗が保留にされたまま終わった。勝者なきタイトルマッチ。津江の長いボクシング取材の中でも前代未聞のことだった。