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あの日、マイク・タイソンは乾いていた。
「衝撃の東京ドーム」を見た2人の証言。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byMikio Nakai/AFLO
posted2020/06/14 19:00
1990年2月11日、ダグラスにKO負けを喫したマイク・タイソン。意識が朦朧とする中、マウスピースを咥えて立ち上がったが……。
タイソンに感じた“野生”の匂い。
1988年2月17日、“世界最強の男”タイソンが初めて日本にやってきた。バブル景気の真っ只中で、人々は熱狂した。
今村は到着の瞬間から密着した。都内ホテルでの生活からトレーニングに至るまで絶えずタイソンを追った。早朝4時からのロードワークにはカメラマンを乗せた車で並走した。息づかいが聞こえるほど間近に迫る中、圧倒的だったのはその獣性だった。
「獣ですよ。すべて本能で動いていた。インタビュー中も全然、集中していない。『なんで、俺はここにいなきゃいけないんだ?』と言っていた。社会性なんてなかった」
野生動物が1つの場所に留まり、1つの物だけを見ていることなどない。タイソンに感じたのは、それと同じ匂いだった。
ホテルニューオータニの1泊15万円するジュニアスイートルームではほぼ全裸で過ごしていた。当時、世界一物価の高い東京ではメロンが1個60ドル(約8000円)、チェリーは1粒16ドル(約2000円)ほどもしたが、食べたいものを食べたいだけ取り寄せていた。部屋には多くの女性が出入りしていた。食欲も、性欲も、満たしたい時にそれを満たした。
最も鋭く本能をむき出したのはジムワークだった。220ポンド(100kg)の筋肉の塊がムチのようにしなり、襲い掛かる。
「スピードが全然違いました。ヘビー級でこんなに速く動けるのか、と。それに技術もすごいんですけど、根本的には殴りたいから殴るという感じ。殺人本能というんですかね……。それが印象的でした」
人間というよりも獣のような動きと本能。タイソンと向き合ったボクサーは生命の危険を感じ、戦意を折られる。それが山のように築き上げたKO伝説の正体だった。
拳が持つ力に気づいた瞬間。
今村は取材の一環でタイソンの育った街にも行った。ニューヨーク州ブルックリンのブラウンズヴィル。全米で最も危険と言われる場所だった。現地では、まずコーディネーターを雇ってサポートを頼んだ。だが、行き先を告げると急に顔色が変わった。
「それは無理だ」
白人のカメラマンも首を横に振った。
「嫌だ。絶対にそこには行きたくない」
代わりに、その街に住んでいた男に頼んでみてはどうかと教えてくれた。今村はタイソンとも顔なじみだったという黒人の男を探し出して依頼した。すると、その男は厳しい口調で忠告した。
「100ドル札を体のいろいろなところに入れろ。1箇所ではなく、なるべく分散させるんだ。そして、それを出せと言われたら抵抗せず、1枚出せ。いいか? 絶対に抵抗しちゃダメだぞ」
今村たちは上着やズボンのポケット、さらにはパンツや靴下、靴の中にまで100ドル札を詰めると、車で街へと向かった。 車内からカメラを回す。閑散とした通りで男たちがドラム缶に火を起こし、裸足のまま暖をとっていた。警戒するようにこっちを見ている。さらに街の奥へと進んでいくと、驚くべき光景が広がっていた。
「目の前で車が逆さまになって燃えているんですよ。映画みたいに……。結局、車から降りることはできなかったです」
ブラウンズヴィルではほとんどの少年が麻薬の売人になり、20歳になるまでに命を落とすという。死因の多くは盗みに入って撃たれるか、薬のやり過ぎか。貧しさと差別、辛すぎる現実をセックスと薬で紛らわす。そんな街でタイソンは育った。少年時代はいじめられていたという。太っていて、メガネをかけていて、内気だったからだ。
だがある日、可愛がっていた鳩の頭を不良少年が引きちぎった。少年の中で何かがキレた。気がつけば、自分をいじめていた不良たちが血まみれになって倒れていた。タイソンが初めて自分の拳が持つ力に気づいた瞬間だった。地獄のような街で「いじめられっ子」でいるということは死に最も近いことを意味する。暴力はそこから這い出す術だった。やがてタイソンは売春婦の家などから盗んだ金で母親に食料を買っていくようになった。12歳までに51回逮捕され、更生施設を転々とし、ニューヨーク州最悪と言われるトライオン少年院に行き着いた。そこでボクシングと出会ったのだ。
殺らなければ殺られる。
ルールのあるリング上においてさえ、タイソンがそんな本能を発散するのは生まれ育った環境のためなのだろうか。生い立ちのストーリーと、目の前に広がる荒廃した街を見ながら今村はそう思った。