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あの日、マイク・タイソンは乾いていた。
「衝撃の東京ドーム」を見た2人の証言。 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph byMikio Nakai/AFLO

posted2020/06/14 19:00

あの日、マイク・タイソンは乾いていた。「衝撃の東京ドーム」を見た2人の証言。<Number Web> photograph by Mikio Nakai/AFLO

1990年2月11日、ダグラスにKO負けを喫したマイク・タイソン。意識が朦朧とする中、マウスピースを咥えて立ち上がったが……。

野獣が見せた一瞬の“素”。

 一方で興味深いことがあった。タイソンが時折、全く別の一面をのぞかせるのだ。

 今村は取材の中で、王者をなるべく日本の文化に触れさせた。相撲部屋に連れて行き、著名人に会わせ、パチンコを打たせた。

「初めての物に触れると、人間というのは素が出るじゃないですか。僕はタイソンの素を撮りたかったんですよ」

 ある日、ロケで浅草寺に行った時のことだ。取り囲む多くのファンをかき分けながら境内へと進むと、そこにはたくさんの鳩がいた。すると撮影の合間、タイソンが突然、足元にいた一羽を捕まえた。

「本当に突然ですよ。『さっ』という感じで。普通、逃げますよね。素手で鳩を捕まえる人間を初めて見ました。鳩に接している顔がすごく優しかったのが印象にあります」

 鳩は逃げるでもなく、その大きな手の中でおとなしくしていた。王者は羽をそっと撫でてやっていた。野獣が見せた意外な一面に、今村は少し戸惑った。一体、どちらが本当のタイソンなのか。

「俺はカスの創造物なんだ」

 また、インタビューを重ねる中、ある人物の名前が何度も出てくることに気づいた。

「俺はカスの創造物なんだ。カスは俺の父親で、俺に尊厳と誇りをくれた」

「ある日、カスの家に南アフリカから2人の白人ボクサーが泊まりに来た時、カスは彼らに言ったんだ。『この家には黒人の少年がいる。彼は家族の一員だ。私に敬意を払うように彼にも敬意を払ってほしい』と。その言葉は一生、忘れないだろう」

 カス、カス、カス……。呪文のように繰り返されるその人物とはコンスタンチン・“カス”・ダマト。独自の理論でフロイド・パターソン、ホセ・トーレスという世界王者を育てながらもボクシング界から弾き出されていた老トレーナーだ。彼は少年院の教官から13歳のタイソンを紹介されると自宅に引き取り、法的保護者になった。ボクシングを教え、世界チャンピオンという目標を与えた。何より、肌の色も、生まれも、貧しさも全て包み込むような愛を与えた。

 しかし、彼はタイソンが世界王者になる1年前、この世を去った。

 タイソンを見ているとカス・ダマトの存在がいたるところに感じられた。試合への調整の中で、毎日ある時間になると奇妙な儀式を行っていた。同行していたセラピストとホテルの部屋で2人きりになり、自己暗示をかけていたのだ。

「お前は最高のボクサーになるために生まれてきたんだ。誰もお前を倒せない」

 カス・ダマトによって15歳の時から教え込まれていた方法だった。

 拳を振るえば誰よりも強く、それだけで巨万の富を生み出す王者の周りには大勢の人間がいた。妻で女優のロビン・ギブンズをはじめ、マネージャー、プロモーター。甘言をささやきながら、その仮面の裏に強欲の本性を潜ませて近づいてくる人間たち。タイソンが心から信じられるのは、もうこの世にいないカス・ダマトだけだった。無敵の男が1人の老人の幻影にすがっている。今村は強さの裏にある深く暗い影を見た。それでも、タイソンのそんな一面を知るのはごくわずかな人間だけだった。

 '88年3月21日。開場したばかりの東京ドームは5万1000人で埋まった。リングサイドが10万円もするチケットは発売から3日で売り切れた。そして、リングに放たれた野獣は巨漢の挑戦者トニー・タッブスをわずか354秒でマットに沈めた。短すぎたショーは高額チケットに見合わないとブーイングが起きるほどだった。タイソンは見るものに圧倒的な強さだけを残して、日本を去っていった。

【次ページ】 2度目の来日となった1990年。

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