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ジェイミー・ジョセフと宗像の物語。
友情と共に育まれたラグビーへの愛。
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph byTakuya Sugiyama
posted2020/06/14 11:30
オールブラックスのNo.8としても活躍した現役時代のジェイミー・ジョセフ。1999年パシフィック・リムで日本代表初キャップを獲得。
重視するのは、キャップ数ではない。
盟友の証言がある。宗像サニックスブルースを率いる藤井雄一郎監督が、本家クラブハウスの応接スペースで言う。
「彼の中で、このクラスの選手じゃなくては勝てない、という感覚はあまりないんです。これとこれを守ってくれれば必ず勝てるから、という発想。練習の態度がしっかりしているなら誰にも資格がある」
人間に関心がないわけではない。
「戦術よりも人について話すことが多い。ただ(代表歴を示す)キャップ数がいくつだとか、そういうことより、練習に対するエネルギーのようなところを重視する」
背景にサニックスのクラブ文化がある。博多駅から最寄りの東郷駅まで快速で40分近くかかる。地理的に、また大企業ひしめくトップリーグにあり'94年創部という歴史の短さからしても、人材は集まりづらい。名もなき原石を掘っては磨く。練習態度がなっていなければ話にならない。
現役時代の藤井監督は、熊本のニコニコドーの主軸、西日本社会人リーグでジョセフを擁するサニックスと戦った。
「初めての出会いは敵です。うちのサニックス戦のゲームプランは、ジェイミーがきたら誰と誰が倒す、喧嘩になったら全員でいく、というもの」
'98年度を最後にニコニコドーが廃部となりサニックスへ移籍、両者は同僚となる。
「最初の日に飲みにいきました」
ジョセフはニコニコドーのしぶとさを知っていた。自分がいるのに勝てなかった。きっと優秀な日本人がいる。それが練習とゲームを仕切る主将の藤井だった。
藤井雄一郎が語った、指導の才。
当時のジョセフについての印象。
「コーチがグラウンドの中に立っているような感じでした。選手としてはとんでもない化け物というほどではない。むしろチームの導き方、仲間の心理の把握に優れていた。ゲームの裏側を見るというのか」
すでに指導の才はあった。
「ジェイミーがついていたのは(新しいチームである)サニックスに長くいて、すべてを自分で手掛けられたこと。私もニコニコドーが貧乏チームだったので選手のころからそうでした」
持たざるゆえに裁量の幅を持てた。
'15年にスーパーラグビーを制するハイランダーズも似ていた。ウェリントン、オークランド、クライストチャーチら都市のチームに比べ、オタゴ地区のハイランダーズの資金と人材は薄い。
「いい選手を集めて勝つ。いいコーチングで勝つ。彼は後者ですね。15人全員の能力が高くなくても戦えるシステムを考える。ハイランダーズがそうでした。いまのジャパンも近いと思います」