酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
清原和博に前田智徳、土井正博。
「無冠の帝王」に漂うダンディズム。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byNaoya Sanuki(L)/Kazuhito Yamada(R)
posted2020/05/22 11:30
前田智徳(左)と清原和博。平成の30年間を知る野球ファンであれば、2人の打棒を思い出すのは容易だろう。
ライオンズ移籍1年目、ついに。
一方で近鉄にとっては、好成績を挙げてもタイトルを取らない土井正博は「安上がりで済む4番打者」でもあった。
そして1974年に成績が下がると、近鉄は土井を太平洋クラブライオンズにトレードする。1975年からパ・リーグでは指名打者が導入されたが、守備の負担から解放された土井はライオンズの1年目に34本塁打で本塁打王を獲得。ついに「無冠」ではなくなった。
土井正博は精悍な男前で、テレビドラマにも俳優として出演した。なかなか格好の良い「帝王」だった。
ONの陰に隠れた大洋の近藤&松原。
土井のように偉大な打者が登場すると、その陰に隠れて無冠の帝王も登場する。
王貞治、長嶋茂雄の2人は1950年代末から1970年代まで圧倒的な成績を収めたが、ONの陰には無冠の帝王が何人か登場した。
大洋の近藤和彦は長嶋茂雄の同級生。明治大学時代からライバルとして知られたが、プロ入り後も特に打率で競り合った。「天秤棒打法」という人にまねのできない独特の打撃フォームで安打を量産したが、打率2位が4回、3位が1回、4位が1回。盗塁王こそ取ったが打撃三部門のタイトルには無縁だった。
それでも近藤和彦はベストナインには7回選ばれている。近藤の1736安打を上回る2095安打を打ち、本塁打も331本、1180打点を挙げながら打撃三部門はおろか、ベストナインにさえ1度も選ばれなかったのが、近藤の同僚の松原誠だ。
松原は埼玉の飯能高校から大洋に入団。当初は捕手だったが一塁手に転向し、のちに三塁手になりまた一塁手に戻っている。しかしこの時期の一塁手、三塁手のベストナインは王貞治と長嶋茂雄が独占していた。松原は打率3割を2回、30本塁打以上も3回、90打点以上も2回記録しながらノンタイトルに終わったのだ。
松原は体が柔らかく、両足を一直線に開いて捕球する一塁守備が売りだったが、守備のベストナインであるゴールデン・グラブ賞も王貞治の前に阻まれている。当時の野球中継で、松原は「ON級の実力の持ち主」と紹介されていただけに残念だ。