Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
<母国探訪ルポ>
モハメド・サラー「エジプトの祈りと泣き虫ハメダ」
text by
豊福晋Shin Toyofuku
photograph byDaisuke Nakashima
posted2020/05/24 18:00
無宗教化が進むエジプトにとってのサラーは?
近年ではエジプトでも若者は自由になり、以前のような宗教観は持っていないという。
「西洋化が大きく影響しています。スマートフォンにソーシャルネットワーク。これらが若者の意識を変えつつある」
ナイル川の若者の姿が蘇る。イスラム教徒が国民の約9割を占めるエジプトでも、真摯な教徒の数は減少傾向にある。以前には考えられなかったが、神の存在を否定する無神論を唱える人々も増えているという。2011年の民主化運動、アラブの春以降それは顕著になり、若者の約10%以上が無神論者という調査もある。ムバラク独裁政権が倒れた’11年以降は社会が混乱した。いまでは高学歴の人ほど神を信じない傾向が強いそうだ。エナスは続ける。
「イスラム世界の現代の若者にとっても、サラーの存在はやはり大きいのです。若者に求心力のある彼が祈る姿を見ると、きっと自分たちのルーツや宗教にプライドを持てるはず。彼はエジプトを超えてイスラム世界に影響を及ぼしているのです」
パスタ、米飯、マカロニ、ひよこ豆が豪快に混ぜられた料理クシャリは、多彩な文化が混ざり合う一品だった。イタリア人やインド人、エジプト人がそれぞれの母国の味を持ってきてできあがった、というのが由来らしい。様々な文化が重なり合い生まれたこの一品を、サラーは子供の頃から口にしていたのだろう。エジプトの英雄に、ブラジルのリズムとセネガルのスパイスを加えたリバプールの最前線みたいだ。
昼下がりの祈りを終えた男たちがモスクから出てくる。白装束を着る彼らはほとんど中年以上だ。その前を、ヘルメットをせずにバイクに乗った若者が猛スピードで駆けていく。中学生くらいだろうか。土埃舞う一本道、モスク前の真っ赤なサラーの壁画が現代の光景を眺めていた。
9歳でサッカーをはじめ、中学は終えなかった。
サラーの幼少期を知る人物を探していると、彼の故郷ニグリィグからマヘル・シタイヤ村長が車で2時間以上かけてカイロまでやってきてくれた。サラーの最初の監督、ファラグ・エル・サイディもついてきた。
CL後、しばらくの間、小さな村ニグリィグはサラーの帰還で大変なことになっていたと村長はいう。
「ファンが自宅につめかけて、彼が家から出られなくなってね。これにはハメダも文句を言っていた。ちゃんとリスペクトしてほしい、と。でも町の人間は悪気があるわけじゃない。英雄を迎えたかったんだ」
村長はサラーの幼少期から彼の家族と交流がある。サラーのことを、近い人は「ハメダ」と呼ぶ。子供の頃のニックネームだ。
「ハメダの家はスポーツ一家でね。父親と叔父もサッカーをしてた。アスリートとしての遺伝もあるんだろう。9歳の頃にサッカーを始めて、その後バラディートゥ・マハラでプレー、最後にアラブ・コントラクターズに行き、そこからバーゼルへと移籍した。子供の頃の彼は、移動とサッカーにあけくれてた。今の若者のように、一般的な青春を謳歌したわけじゃない。サッカーに対して一途でね。それが報われたんだ」
エル・サイディは、はじめてサラーを見た時のことを覚えている。
「トラップを見てすぐに分かった。ああ、彼は他とは違うんだと。サラーは神が与えてくれた特別なものを持っていた。あの左足の精度と足の速さは同年代の中でも抜きんでていた。もちろん犠牲にしたものもある。学校に通ったのは14歳前まで。中学も終えなかったが、サッカーに専念させたのがよかった。ボールを蹴り、腹が減ったらクシャリを食べる。そんな日々だった」
14歳の時には日々5回バスを乗り継いでカイロに向かい練習した。週に6日、朝8時に自宅を出て朝陽を見ながらカイロへ向かい、帰宅は真夜中になることもあった。
「それを2年半続けたんだ。もちろん普通の若者のような遊びはできない。でもサッカーができるだけで彼は幸せだったんだ」