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<母国探訪ルポ>
モハメド・サラー「エジプトの祈りと泣き虫ハメダ」
text by
豊福晋Shin Toyofuku
photograph byDaisuke Nakashima
posted2020/05/24 18:00
ラマダンの夜は、欲望に彩られている。
カイロ空港から市内へ続く長い高速道路を、年季の入ったシボレーが土埃をかきわけ走っていく。通常は混雑するという道も、ラマダン明けの休日ということもありスムーズに進んでいった。
道路脇の巨大な広告看板群が目に飛び込んでくる。世界的な有名ブランドの広告から地元企業のものまで。リバプールの赤いユニフォームを着たサラーの姿を見つけるのに時間はかからなかった。天を指差し、上を見あげている。洗剤の広告だ。ドリブルするサラーが大きく映し出されたアディダスの広告もあった。首都カイロから車で2時間ほど北上した小さな村、ニグリィグで生まれた少年はやはり英雄になったらしい。
宿に荷を下ろすと外が騒がしい。賑やかな声にひかれて出てみると、陽が沈み始めたカイロに祭りの空気が漂っていた。
ナイル川にかかるカスル・アン・ニール橋は人でごったがえしていた。必ずどこかのパーツが欠けたスクーターや車が、群衆の塊をかき分けゆっくりと進んでいる。若者が歩きながら叫び、歌を歌う。肌が見える服を着た女性もいる。
ナイル川には遊覧船が何隻も停泊していた。どの船もアムステルダムのネオン街みたいにけばけばしい電飾がほどこされ、西洋のダンスミュージックが大音量で流されている。水上のディスコテカだ。若者は着飾り、列をなしてディスコの中へ入っていく。カイロの夜が始まろうとしていた。
イスラム教徒が日の出から日没まで一切の飲食を断つラマダンは約1カ月続く。暑い日中も水を口にすることすらできない。何かから解放されるとき自然に発せられる人間の欲が、あたりに充満していた。
縁もゆかりもない土地にもサラー、サラー。
翌朝、アレクサンドリアへと向かった。
自国開催のアフリカ選手権を控えたエジプト代表の合宿地だ。エジプト第2の都市アレクサンドリアは地中海に面しており、人口は400万を超える。かつては「地中海の真珠」と言われるほどの繁栄を誇り、今では国内随一の工業都市だ。
市街を歩くと、いたるところでサラーの髭面にでくわした。
ここはサラーとは縁のない土地だ。生まれ故郷でもなければ、この町のクラブでプレーしたこともない。それでも壊れかけの壁に、電柱のポスターに、サラーがいた。
水タバコの店に中年の男たちが溜まってプカプカやっていた。皆いつもそこにいるのだろう、たいして会話もしていない。柱の一番上に、サラーの写真がかかげられている。まるで神棚みたいだ。
路上では目の前の地中海で獲れた魚介類が豪快に売られ、少年たちが食堂の前でボールを蹴っている。店先で鯛を焼く親父はそれを眺めている。カイロよりも穏やかな空気が海の町に流れていた。