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<母国探訪ルポ>
モハメド・サラー「エジプトの祈りと泣き虫ハメダ」 

text by

豊福晋

豊福晋Shin Toyofuku

PROFILE

photograph byDaisuke Nakashima

posted2020/05/24 18:00

<母国探訪ルポ>モハメド・サラー「エジプトの祈りと泣き虫ハメダ」<Number Web> photograph by Daisuke Nakashima

「男は強く」の社会で、サラーはよく泣いた。

 現代のカイロにもサッカーをする幸せな顔があった。

 カイロ郊外、ロイヤル・ポインシアーナの鮮やかな橙色に満ちたアラブ・コントラクターズの練習場。いつかサラーになることを夢見る少年たちが必死にボールを追っていた。かつてサラーもこの芝の上でプレーし、欧州へと旅立っていった。

 クラブの下部組織の扉には大きなサラーの写真が掲げられてある。施設内には祈りの場所もあり、絨毯が敷かれ、神聖な空気が漂っている。サラーは練習中も、祈りだけは欠かさなかったという。

 当時の育成ディレクター、サイード・シシニが思い出すのは、幼い彼の泣き顔だ。

「よく泣いていてね。故郷を離れて寂しかったこともあったんだろう。イスラム世界では、男は強くなければならない、泣いてはならない、という風潮があるんだが、彼は感情を出して泣いた。特に、試合に負けた後の悔し涙は忘れられない」

 当初、左サイドバックとしてプレーした彼は、次第にポジションを変えていく。

「左サイドのミッドフィルダーになり、やがて右サイドになった。いまリバプールで見せているように、あの左足を活かしたかったんだ。あの頃、私はこの少年は大物になると思っていた。ただ、ここまでとは想像が及ばなかった。あの泣き虫のハメダが、世界を代表する選手になるとは」

 シシニは大事にとってある当時の写真を見せてくれる。あどけない顔のサラー。すぐそこのピッチでボールを蹴っている少年たちと同じくらいの年齢だ。

 この日はクラブのテストが行われ、エジプト中からサッカー少年がやってきた。そのひとり、スラームという名の青年に話を聞いた。サラーみたいになりたい?

「サラーの4分の1の巧さでいいかな。それだけで、僕は十分だ」

 昔のサラーのように、このテストのために田舎からバスで駆けつけた若者もいた。

「ここで認められて、ヨーロッパに行けたら嬉しいんだけど」

一目ぼれした女性との故郷でのささやかな結婚式。

 昔からシャイで静かな少年だったが、大胆なときもあるんだと村長は微笑む。

「今の奥さん、ジジとの出会いだ。若い頃、遠くから彼女を見たことがあったらしい。でも話をしたことはなかった。ハメダも成長し、ある時オフにヨーロッパから帰ってきたときに、いきなり伝えたんだ。モハメドさんのところの娘さんと結婚したい、とね。一目惚れだったそうだ。結婚式も、もちろん私たちの村でやった」

 有名になってから近寄ってくる西欧の魅力的な女性を華麗にかわし、サラーはかつて目にした故郷の娘を選び、村でささやかな結婚式を行った。ルーツを忘れない彼のことをニグリィグの誰もが愛している。

「いまでは随分遠いところまでいってしまった。でも故郷にいる私たちにとっては、いつまでもあのころのハメダなんだ。彼はオフには必ず村に帰ってきてくれる。この国の気候が好きなんだと言ってね。コーランを手放さず、リバプールの遠征にも必ず持っていく。彼は素朴な生き方を貫くことができる。現代の有名フットボーラーの姿じゃないだろう」

 ニグリィグ村では、きっとサラーは神様のような存在なんですね、と言うと、ふたりは同時に首を振った。君は何も分かっていないんだな、とでもいうように。村長はきっぱりと言った。

「そんなわけはないだろう。神はアラー、この世にひとつの絶対的な存在だ。サラーはイスラムの力になれるということだ。CLの決勝でゴールを決めたあと、彼は神に祈り、ピッチにキスをした。世界中がその光景を見た。このひとつの行為が世界を変える。ハメダにはそれができる」

 魅惑のエジプト、そのいたるところにサラーの影があった。

 スークの土産物屋の棚にはツタンカーメンとともにサラーの人形が並ぶ。露天で売られる民族衣装に挟まれた、サラーの偽ユニフォームの数々。アレクサンドリアの水タバコ店では柱のサラーが今日も崇められているだろう。人々の心の中にサラーが生きている。彼らのために、サラーは祈っているのかもしれない。

 エジプトにおいて、サラーは神ではなかった。彼はただ、現代社会において自分が信じることを、世界の多様性とそれぞれの価値観を、声を荒げることなく伝えている。僕らは彼の祈りを見て、その静かな強さに気付かされる。

 ナイル川では若者たちが終わらない興奮の中ではしゃいでいる。カイロを後にし、空港へと向かう。天を向くサラーの広告看板が、旅人に別れを告げるように背後へと消えていった。

モハメド・サラーSalah Mohamed

1992年6月15日、エジプト生まれ。アラブ・コントラクターズでデビュー。バーゼル、ローマ等を経て、'17年にリバプール加入。初年度はリーグ記録を更新する32ゴール、昨季は22ゴールで2年連続得点王に輝く。175cm、71kg。

久保建英18歳の冒険。

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