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<母国探訪ルポ>
モハメド・サラー「エジプトの祈りと泣き虫ハメダ」
text by
豊福晋Shin Toyofuku
photograph byDaisuke Nakashima
posted2020/05/24 18:00
アギーレ「バロンドールを獲得するだろう」
ホテルのロビーでアギーレに会う。彼はやや興奮気味にこの国のサッカー熱を語ってくれる。
「ここでは本当にみんながサッカーに対してロコ(クレイジー)なんだ。私はメキシコ人だ。現役時代も、監督になってからも、世界中でサッカーを目にしてきた。でも、この国のサッカーに対する熱量は衝撃だった。欧州や南米とはまた違った狂気というのか……。私も日々驚かされている」
日本を離れてから4年がたった。白髪は増えたが、大好きなサッカーを語る時の目の色はあの頃と同じままだ。
「近いうちに、サラーはバロンドールを獲得するだろう。彼にもそう言った。メッシとロナウドの10年の後にやってくるのは群雄割拠の時代だ。何年も同じ選手がバロンドールをとることは考えにくい。サラーは最有力だ。実際、リバプールでもCLをとった。ボールを持つと止められない。魅せるプレーもでき、ゴールも決められる。サラーの時代がやってくるかもしれない」
エジプト代表で気がついたのは、チームという集団の中での彼の言葉の重みだ。
「大声で怒鳴り士気を高めるタイプじゃない。でも彼なりのリーダーシップがある。周囲を気にしているし、まとめようという気持ちを感じる。年齢も知名度もあがり、社会的な責任感がでてきたのだろう。そして何よりも周囲がサラーの言葉にしっかりと耳を傾けるんだ。彼が言うことは正しいんだ、と。サラーはこの国では単なるサッカー選手を超越した存在になっている。町を歩いても分かっただろう? 若者から老人までサラーを崇めている。メッシでも、ロナウドでも、それぞれの国でこれほどの存在にはならないだろう」
練習時間が始まろうとしていた。しかしそこにサラーはいない。CL決勝に進出したこともあり、彼だけが調整のための休暇をもらっていたのだ。エジプトサッカー協会に聞いてもいつ合流するかは分からない、とのことだった。サラーの疲れが癒えるまで、というところか。アギーレが言うように、この国で彼は特別な存在なのだ。
「エジプトに来て、初めて理解できたことがある。それが、サラーは3つの世界を象徴しているということだ。彼はエジプトの象徴であり、アフリカの象徴であり、そしてイスラム世界の象徴なんだ」
イスラムへの偏見をサラーが変える。
イスラム世界にとってのサラーの重要性を示す調査がある。
「イスラモフォビアに対するモハメド・サラー効果」という米スタンフォード大学の研究者らによる論文だ。イスラモフォビアとは「イスラム恐怖症」と呼ばれ、世界中で社会問題になっている。イスラム国(IS)によるテロが続く欧州では特に恐怖心が高まっており、偏見や差別も多い。
論文によると、サラーの存在によりリバプールの本拠地マージーサイド州における反イスラムのヘイトクライムが18.9%減少、SNS上での反イスラム的ツイートも半減したという。同グループは「この結果は広がる親イスラム感情によるもの」と結論づけ、サラーの存在が社会を変えうることを示唆している。
エジプトのTV局「アル・アラビア」でシニアプロデューサーを務め、アラブ世界の社会問題に詳しいエナス・シャフィクに会う。彼女はサラーの好物であるエジプト人のソウルフード、クシャリの名店に連れていってくれた。
「すべては9・11以降の話です。米国や欧州でイスラムを悪とする偏見が渦巻きました。テロとイスラム。あの事件がこのふたつをそう結びつけてしまった。ISはイスラムの教えを履き違えた人々なのですが」
イスラム世界にとってのサラーの重要性という、アギーレの意見をぶつける。彼女は頷く。それが希望とでもいうように。
「イングランドでの調査の結果はここエジプトでも話題になりました。サラーは欧米でも絶大な人気と知名度を誇っている。そんな彼がムスリムであることを隠しもせずに、CLで堂々と世界に示してくれた。それは本当に大きなことなのです。あれを見ると、イスラムは全て悪だなんて馬鹿げたことは思わないはず。どんなイスラム聖職者にもできないことを、彼はひとつの行為で、ひとつのプレーでやってくれる。特に若者にとって、その影響は計り知れない」