フットボールの「機上の空論」BACK NUMBER
海外の指導者は「恩師」に興味なし。
クセのぶつかり合いがスターを生む?
text by
中野遼太郎Ryotaro Nakano
photograph byRyotaro Nakano
posted2020/05/15 11:00
さまざまなタイプの指導者に出会ってきたと話す中野氏。彼らが求めていたのは「自分を勝たせてくれる」選手だった。
「クセのぶつかり合い」が苦手だった。
僕は選手時代、このクセのぶつかり合いが苦手でした。
監督には無条件のリスペクトがあって、言われたことをどう消化するか、という一点しか頭にありませんでした。しかし「言い返す/意見する」選手たちと、それに感情まるだしで対峙する指導者たちに囲まれて(その全てに『俺はこう思う――』という名札がついていることに気付いて)、そこに自分で考える習慣が育まれていく感覚がありました。なぜなら彼らは大抵「正しくない」から、どう受け取るかは自分で考えないと、精神的に食われてしまうのです(笑)。
そして自分が尊敬する日本の大人もまた「わりと偏ったことを、自分名義で言ってくれる人」だということに気づきました。
もちろん、日本の部活動の顧問がピザを投げつけることは出来ませんし、クラブのコーチが半年間だれかを無視することもないでしょう。そもそもそれらは、人としてまっとうなことではありません。当時もブチ切れそうでした。しかし後先のない、一過性の関係だからこそ、そこには屈託のない真剣勝負があります。
「正しくある」だけなら、AIがある。
もしかしたら僕たちが揃って「まっとうな人間」として寄り添うことは、選手を没個性の森に迷い込ませることかもしれません。「正しくある」だけなら、すでに僕たちの頂点にはAIが君臨しています。「正しいこと」には、受け手に考える余白が残りません。当たり障りのない指導の先で、AIの下位互換になってしまうのだとしたら、それは少なくとも僕の目指すところではありません。だから知識を積み上げるだけじゃなく、「根性」とか「気迫」とか古臭くてダサいとされているものを、自分自身から奪いたくはないのです。
「私が育てあげる」でも「正しいことを言う」でもなく、ただ自分という人間を通過してもらう、という感覚で接することが、この時代に真剣に誰かと向き合うことなのかもしれない、と、いまの僕は思っています。僕個人の「クセ」を通過していって、だいぶ先に数人から「アイツまぁまぁ効いてたな」と思ってもらえる指導者、というのがいまの理想です。どうでしょう。
ちなみに僕は、いまだに「師弟関係」、「先輩後輩」のような、ときに理不尽で一方的な関係性のファンですが(考え方が古いのは百も承知です)、集団競技の指導者としては、この時代に明らかに機能しないという危機感があり、ピザを投げつけてしまう前に、ここを整理するために書かせていただきました。
なにより僕が一番伝えたかったことは、ピザはハーフタイムより試合後にロッカーに届くように注文したほうがいい、という1点です。
前回のコラム以降、「読んでます」と言われる機会が増えました。連載化も決まって僕はとても気を良くしているので「難しい言葉の羅列」に走っているかもしれません。しかしこれが限界です。もう出し尽くしました。明日は久しぶりに、ピザ食べようかな……。