フットボールの「機上の空論」BACK NUMBER
海外の指導者は「恩師」に興味なし。
クセのぶつかり合いがスターを生む?
posted2020/05/15 11:00
text by
中野遼太郎Ryotaro Nakano
photograph by
Ryotaro Nakano
今月からコーナーを持たせてもらうことになりました。小学生の僕に「あなたは20年後、サッカー選手は辞めていますが、Numberで連載を持っています」と言っても絶対に信じないと思いますが、過去2回の記事のリンクを親族中に送りつけた母親とのコンビプレイで、ここまでたどり着きました。ありがとう。今回からは「友人の友人までは無差別に送りつけてよし」と伝えることで盤石化を図ります。
「自己主張」をテーマに日本人と海外の選手の違いを書いた前回に引き続き、今回は指導者の特徴について、ある程度(自分の中で)整理してみました。
ここでの「特徴」は決して優劣を表すものではなく、ビンと缶、米と麦、僕と玉木宏、のように「単に異なる」ことを指します。優劣ではありません。優劣などないのです。
「PLAY」の欧米、「教育」の日本。
さて。前提を整理するために、すこしだけ体育とスポーツの話をします。
実は本来、スポーツは「PLAY」という言葉の通り「自ら望んで選択するもの」でした。
しかし日本に持ち込まれ、発展していく過程で「身体教育」という枠の中にスポーツが収まってしまい、教育の一環として扱われるようになりました。「自ら望んで選択する」はずのスポーツが、体操、体育の一部として吸収されてしまったのです。
そのため、現在日本にあるスポーツの多くが、学校体育の延長にあります(そういう僕は体育の教員免許を持っています)。また課外である部活動においても、「先生」が「顧問」となり、そのまま「監督・コーチ」の役割を担う構造になっています。
「PLAY」という遊戯的な性格を持って発展した欧米スポーツと、「教育の一環」として定着させてきた日本では、同じ競技でも内在する精神性がすこし違います。体育は嫌いだけどスポーツは好き、と思い当たる人がいれば、それはおそらく「教育装置として義務化された運動」への抵抗ではないでしょうか。簡単に言えば「なんで授業で持久走しなきゃダメなの?」と憂鬱になっていた人が、いまではハーフマラソンの完走証を片手にインスタに投稿している、みたいな感じです(違うかもしれません)。
とにかく、人格形成のためにスポーツをするのか、スポーツをしたいからするのか、という部分が非常に重要です。