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腐ったミカン騒動に加茂監督更迭。
W杯初出場をめぐる日本代表事件簿。 

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川端康生

川端康生Yasuo Kawabata

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photograph byKyodo News

posted2020/04/28 07:00

腐ったミカン騒動に加茂監督更迭。W杯初出場をめぐる日本代表事件簿。<Number Web> photograph by Kyodo News

日本代表監督をめぐって大きな議論を巻き起こした長沼健会長(当時、右)と加茂周監督。カザフスタン戦後に衝撃の更迭劇が起きた。

ネルシーニョの腐ったミカン発言。

「加茂監督に続投してもらうことになりました」

 その第一声を耳にした途端、会見場がフリーズしたことは言うまでもない。すでに専門誌などでは「ネルシーニョ日本代表監督」はほぼ既定事実として報じられていたのだ。

 一瞬凍りついた会見が、次の瞬間には沸騰する。

 なぜだ? 誰が決めた? どういう判断か? 加茂で大丈夫なのか? 殺気立った質問が相次いだのである。人事に関する発表では異常なことだが、それほどみんな真剣だった。僕自身、若気の至りで相当執拗に質問し続けた記憶がある。

 おまけに、そこに油が注がれた。

「ミカンの籠の中には腐ったミカンが2つや3つは入っているものだ」

 数時間後、はしごを外された格好になったネルシーニョが会見を開き、そう言い放ったのである。いわゆる「腐ったミカン事件」である。

 これをきっかけにサッカー界はさらにヒートアップしていく。ネルシーニョを推していた強化委員長らは辞表を叩きつけた。代表戦のスタンドには当時の協会会長の名前を揶揄して<狼少年ケン>の横断幕が掲げられた。

 1995年秋のことだった。

アトランタ五輪とマイアミの奇跡。

 ここまででドーハの悲劇からまだ2年しか経っていない。なのに、日本代表監督を巡る出来事だけでもこれだけのエピソード。退屈やマンネリとは無縁の日々だった。

 しかもドラマは日本代表だけではなかった。翌1996年にはオリンピック代表がアトランタ五輪に出場する。28年ぶりだった。前回の東京五輪(1964年)の次のメキシコ五輪以来である。

 ピンと来ないかもしれないので列記する。

 1970年メキシコW杯、1972年ミュンヘン五輪、1974年西ドイツW杯、1976年モントリオール五輪、1978年アルゼンチンW杯、1980年モスクワ五輪、1982年スペインW杯、1984年ロサンゼルス五輪、1986年メキシコW杯、1988年ソウル五輪、1990年イタリアW杯、1992年バルセロナ五輪、1994年アメリカW杯。

 7度のワールドカップ予選と6度のオリンピック予選で13連敗。28年とはそういう時間だ(オリンピックが23歳以下になったのはバルセロナ五輪から)。

 そんな長き連敗の歴史を変えた若き日本代表もまた――猛暑のクアラルンプールでのサウジアラビアとの激闘。前園真聖がねじ込んだ2つのゴールと、川口能活の神懸かったスーパーセーブ。そればかりか勇躍乗り込んだオリンピック本大会では「マイアミの奇跡」でブラジルを破った。なのに決勝トーナメントに進めなかった。

 スリリングなストーリーを展開していたのである。

【次ページ】 世界中を駆け巡った長沼会長。

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