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斎藤雅樹はとんでもなく凄かった。
人のいい気弱な若者が遂げた変身。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKyodo News
posted2020/04/27 11:40
信じられない数字を残した斎藤雅樹だが、素顔は人のいい気弱な青年だった。そのギャップもこの大投手の魅力だ。
三本柱は桑田、槙原、水野だった?
そんな平成の大エースも決して順風満帆なキャリアではなかった。’83年にあの甲子園のアイドル荒木大輔の外れ1位指名でプロ入りすると、一時は打撃センスを評価され遊撃手育成プランもあったが、藤田元司監督の助言でサイドスロー転向。
3年目の’85年に12勝を挙げるも、その後は7勝、0勝、6勝と伸び悩み、右ヒジ痛も抱え前述の通りトレード候補に。あだ名は、同姓の欽ちゃんファミリー斎藤清六にちなんで“セイロク”。食うか食われるかのプロの世界において優しさは時に足枷になる。
絶対的エース江川卓が引退した直後の巨人の次世代三本柱と言えば、桑田真澄、槙原寛己、そして水野雄仁。いわば、ファンから見た斎藤の印象は、どこかもどかしさすら感じる、いまいちハングリーさが足りない「同世代の出世レースに乗り遅れた男」だった。
しかし、だ。斎藤の運命は’89年から藤田監督が巨人に帰ってきたことにより大きく変わる。復帰1年目のシーズン、藤田は前年6勝の背番号41を開幕2戦目に先発起用したのだ。ヤクルトに1点リードされて迎えた7回裏、打順が斎藤に回り誰もが交代と思ったが、ベンチはあえて代打を送らずそのまま打席に立たせた。
11連続完投勝利の始まりの日。
さらに5月10日の大洋戦、その3日前の広島戦で1回3失点KOを食らっていた斎藤を中2日で先発マウンドへ。序盤は味方打線の援護にも恵まれ快調に飛ばしたが、8回に大洋打線に掴まると5-4と1点差まで迫られ、弱気の虫がうずく。マウンド上のセイロクはそれとなく交代を促す仕草を見せるも、藤田監督は続投を決断。
中日からトレード移籍してきた捕手・中尾孝義の強気のリードにも引っ張られ、満塁のピンチを併殺打でしのぐと、最終回も投げきり152球の完投勝利を挙げた。このギリギリの白星から、プロ野球記録の11連続完投勝利の偉業が始まったわけだ。