ぶら野球BACK NUMBER
斎藤雅樹はとんでもなく凄かった。
人のいい気弱な若者が遂げた変身。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKyodo News
posted2020/04/27 11:40
信じられない数字を残した斎藤雅樹だが、素顔は人のいい気弱な青年だった。そのギャップもこの大投手の魅力だ。
斎藤はマウンドで楽しそうだった。
何の仕事でも、信頼ができるボスとの出会いは人生を変える。指揮官が我慢に我慢を重ねて、やがて自信をつけ先発投手として開花していく当時24歳のサイド右腕。11連続完投中の内容を確認すると、11戦で総失点はわずかに12。途中3連続完封を挟み、7月15日ヤクルト戦の新記録達成試合も3安打完封勝利で飾っている。
この頃の斎藤はマウンド上でとにかく楽しそうだった。なにせ’89年は年間245回で21完投、’90年は224回で19完投、2シーズンで計40完投(13完封)と徐々に分業制が確立してきていた平成球界において、昭和のエースのような圧倒的な投げっぷりだ。なお平成30年間で、2年連続20勝を達成したのは、’89年と’90年の斎藤雅樹ただひとりである。
ちなみに背番号11に代わり、MVPに輝いた’90年は打撃も好調で、74打数18安打で打率.243という野手顔負けの数字を残している。もちろんフィールディングも球界屈指で、’90年代のゴールデングラブ賞投手部門は斎藤が4度受賞、桑田は5度とセ・リーグは事実上この野球センスの塊の2人の争いだった。
エースは「そんなもの斎藤に決まっているだろう」。
昭和のV9時代にエースナンバーの18番を背負った堀内恒夫は、雑誌『読む野球』(主婦の友社)のインタビューでこんな言葉を残している。「今まで見た中で、本物のダイヤモンドは江川と桑田で、原石だったのは斎藤。オーバースローでダメだったものが横投げにして一気に輝いた」と。つまり、藤田采配が我慢強く原石を磨き上げたわけだ。
巨人が日本一に輝いた89年、24歳・斎藤が20勝、21歳・桑田が17勝、26歳・槙原が12勝。しかも全員高卒ドラフト1位入団という理想的な先発ローテである。いったい誰があの時代の巨人のエースだったのか? ホリさんはこう断言する。
「三本柱の中で、誰がエースか? そんなもの斎藤に決まっているだろう」