ぶら野球BACK NUMBER
斎藤雅樹はとんでもなく凄かった。
人のいい気弱な若者が遂げた変身。
posted2020/04/27 11:40
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Kyodo News
その男は万年トレード候補だった。
1986年オフ、パ・リーグで2年連続三冠王に輝いたロッテの主砲・落合博満の巨人移籍が連日報道されていた。まだ日本球界にFA制度が存在しなかった時代、ストーブリーグの話題と言えば大型トレードネタである。
結局、落合の移籍は12月23日午後10時過ぎに球団から発表され、トレード相手は巨人ではなく新監督・星野仙一の執念の巻き返しで逆転した中日だった。その夜、落合の中日入団会見はテレビ朝日系『ニュースステーション』で緊急生中継。
それをブラウン管の向こう側でかじりつくように見ていた21歳の巨人若手投手の談話が、当時の報知新聞に掲載されている。
「トレード要員として、ボクの名前が出てきたでしょ。ある新聞で『もし行けと言われたら?』と聞かれて『仕方ないでしょう』と答えたら『移籍OK』みたいに書かれてしまった。あれはマイッタですよ。両親も『決まったら決まったで仕方ないよ』と変ななぐさめ方をするし……」
まるで合コンでしくじったさえない大学生のようなコメントだが、そんな人のいい気弱な若者が、のちに“平成の大エース”と呼ばれる斎藤雅樹である。
平成前半の斎藤はとんでもなかった。
通算180勝96敗、防御率2.77。個人的にこれまでリアルタイムで見てきた中では歴代ナンバーワン投手だ。145キロ超えの直球とキレキレのカーブを武器にする本格派サイドスロー。
とにかく平成前半の斎藤はとんでもなく凄かった。
なにせ’89年から’96年の8シーズンで、沢村賞3度(史上最多タイ)、最多勝5度(スタルヒンに次いで歴代2位)、最優秀防御率3度、最高勝率3度、最多奪三振1度、3年連続開幕戦完封を記録。仮に10年遅く生まれていたらメジャー球団の大争奪戦になっていた可能性が高いが、時代の変わり目の日本球界でひたすら勝ち星を積み重ねた。