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ライガー、Jrヘビーでの世界的活躍!
1994年に伝説となった、あの大会。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/04/27 19:00
所属団体の枠を越えジュニアヘビー級のスター選手が勢揃いした第1回「スーパーJカップ」の大会終了直後の記念すべき写真。
東北のスターを一躍全国区に押し上げた大会。
サスケはライガーとの準決勝やベノワ(ペガサス)との決勝で驚異の飛び技を披露し続けた。
当時、東北という限られたエリアで興行を続けていた「みちのくプロレス」にとって、ライガーの大会参加の提案は願ってもないチャンスだったのだ。
試合は両国国技館からテレビ朝日の番組「ワールドプロレスリング」を通じて、全国に中継されていた。新日本プロレスの映像はライブではないが、アメリカの団体やファンにもチェックされていたから、そこから戻って来るファンのアクションは興味深いものだった……そして、サスケには実際に最高級の評価が続くことになった。
ジュニアヘビーの選手だけで満員御礼の大会!
ライガーは1989年4月のデビュー後、5月には馳浩からIWGPジュニアヘビー王座を奪うと、順調にジュニアヘビー級の戦士としてそのステータスをあげていった。
ライガーがこの団体の垣根を越えたジュニアのトーナメント大会を思いついたのは、スポーツ紙が出していたプロレス特集号の座談会企画でのことだったという。
試合の勝敗がそのまま団体の存亡まで左右してしまう可能性があったヘビー級の対抗戦と違って、ジュニアヘビー級というジャンルはライガーの希望がまだ通る余地があった。ヘビー級ではなかなか進まないだろう難しい話が、ライガーの提案によってうまい具合に新日本プロレス内でするすると受け入れられてしまった。
インディー団体にはうるさ型の長州力でさえ、この開催を容認したのである。
そして、実際に大会の蓋を開けてみれば……ジュニアの戦士だけで、両国国技館は満員になったのである。
さまざまな団体から集まった14選手が、一夜で繰り広げた13試合は、いまだに語り継がれている伝説となった。それは同時に、ライガーという1選手の才能とプロレス界における貢献度に対する絶大なる評価にもつながったのである。
結局、スーパーJカップは主催団体を変えて通算7回開催された。その発起人たるライガーは、第2回大会で優勝している。