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ライガー、Jrヘビーでの世界的活躍!
1994年に伝説となった、あの大会。
posted2020/04/27 19:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
26年前、1994年4月16日、両国国技館でジュニアヘビー級のワンナイト・トーナメントである第1回「スーパーJカップ」が開催された。これは獣神サンダー・ライガーが実現に音頭を取った画期的な大会だった。
団体の垣根を超えて、14選手が東京に集結したのである。
ハヤブサ(FMW)、リッキー・フジ(FMW)、ネグロ・カサス(EMLL・メキシコ)、茂木正淑(SPWF)、エル・サムライ(新日本)、ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス)、ワイルド・ペガサス(クリス・ベノワ/新日本・カナダ)、TAKAみちのく(みちのくプロレス)、ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ/AAA・メキシコ)、スペル・デルフィン(みちのくプロレス)、大谷晋二郎(新日本)、外道(WAR)、ディーン・マレンコ(フリー・アメリカ)、そして獣神サンダー・ライガーというメンバーだった。
この一夜は、実にアメリカ・マット界にまで多大な影響を与える大会になったのである。大会出場者たちの多くが、実際にこの後、アメリカのWWF(現WWE)、WCWなどのメジャー団体で活躍することになったのだ。
優勝したペガサス(以降「ベノワ」と呼ぶ)には藤波辰巳が持っていたWWFジュニアヘビー級ベルト(ベルトはWWWF時代のもの)が送られた。
藤波は1978年にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)で破って、WWWFジュニアヘビー級王者になっている。当時、その藤波の凱旋が日本にジュニアヘビー級のブームを巻き起こし、そのブームはタイガーマスクやダイナマイト・キッドに引き継がれたのである。
ベノワが手にしたのはそんなジュニアヘビー級の象徴的なベルトだったのだ。
ライガーやベノワはその後、ジュニアヘビー級という領域を世界に広げていくこととなった――。
ペガサス(ベノワ)とサスケの決勝は伝説に。
翌1995年にはライガーはWCWのリングでベノワと戦った。
アメリカではまだ、ライガーは悪役扱いだったが、そのスタイルを変えることなく戦った。ベノワはジュニアヘビー級の枠を超えてWCWで世界ヘビー級王座を獲得した後、WWFに移籍、WWE世界ヘビー級王座も手にした。
夢のトーナメントの決勝戦となったベノワとサスケとの一戦は、海外でも絶賛されていた。サスケは自分自身の体のダメージを考えずに何度も場外に飛んで、国技館の固い床に腰や頭を打ち付けていくほどの熱闘だった。
当時、1試合だけだったら絶対に失敗しない自信のあった飛び技をサスケが失敗したのも、そんな過激な技からきたダメージのためだったのだろう。ライガーは決勝では、そんな満身創痍のサスケのセコンドについてエールを送っていたほどだった。
一方でベノワの成長ぶりに筆者はうれしくなってもいた。というのも、1987年にカナダのエドモントンで、まだ何者にもなりきれていなかった頃のベノワに会ったことがあるからだった。
まだ体は小さかったが、首まで盛り上がった肩からの筋肉が印象的だった。ダイナマイト・キッドみたいだった。いい選手になるとは思ったが……ここまで成長するとは正直想像できなかった。