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トータルフットボール、もう1人の
申し子。レンセンブリンクの生涯。 

text by

ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

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photograph byL'Equipe

posted2020/04/02 07:00

トータルフットボール、もう1人の申し子。レンセンブリンクの生涯。<Number Web> photograph by L'Equipe

ビッグクラブでの活躍は無いが、ロベルト・レンセンブリンクの存在なくしてオランダ代表の躍進は無かった。

ベルギーでの栄光以上のものを求めなかった。

 だが、彼の経歴で特筆すべきは欧州カップウィナーズカップでの活躍である。

 '76年から3年連続でアンデルレヒトは決勝に進出。'76年(4対2、ウェストハム)と'78年(4対0、オーストリア・ウィーン)には優勝を果たし、同時に欧州スーパーカップも制覇した。レンセンブリンク自身も、'76年には通算8ゴールをあげて大会得点王に選ばれている。

 ベルギーの王様となったレンセンブリンクには、より高いレベルのリーグでプレーする必要はなかった。

 そうであるから'80年にインテルとレアル・マドリーが興味を示した際も、どちらも選ばずに北米サッカーリーグ(NASL)のポートランド・ティンバースに新天地を求めたのだった。さらに翌年はトゥールーズ(当時2部リーグに所属)に移籍し、フランスで1シーズンを過ごした後に現役を引退。34歳で選手としてのキャリアを閉じた。

クライフとまったく異なる引退後の生活。

 恐らくは性格の問題なのだろう。レンセンブリンクにはクライフほどのフィジカルの強さはなかったし、《ヨハン陛下》の威厳もなかった。もの静かで内気な彼は、闘志もまた内に秘めるタイプであった。

 彼を誹謗するものたちは、興奮し、暴力に走ることはほとんどなく常に自分のリズムでプレーしていたと揶揄する。また5得点(うち4点はPKによる)と3アシストを記録した'78年ワールドカップも、特筆すべき活躍はなかったという。

 真に偉大なキャリアであったとは言えないのか? もしかしたらそうなのかもしれない。何故ならば現役を引退した彼は、ついに一度も監督としてベンチに座ることがなかったからである。

「プレッシャーが半端なく、怒りで神経をすり減らす仕事だ!」

 ピッチサイドではなく彼が選んだのは別のベンチだった。それはずっと牧歌的な、釣竿を携えてたたずむ余生のベンチであった。

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