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トータルフットボール、もう1人の
申し子。レンセンブリンクの生涯。 

text by

ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

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photograph byL'Equipe

posted2020/04/02 07:00

トータルフットボール、もう1人の申し子。レンセンブリンクの生涯。<Number Web> photograph by L'Equipe

ビッグクラブでの活躍は無いが、ロベルト・レンセンブリンクの存在なくしてオランダ代表の躍進は無かった。

クライフとそっくりだった外見。

 クライフと似通った顔立ちと体躯。2016年3月にクライフが逝去した際に、イギリスのある新聞は間違ってレンセンブリンクの写真を掲載したほどだった。

 あらゆる点でレンセンブリンクは最高クラスだった。

 魔術師のような左足とボールコントロール、電光石火のスパート、卓越したパス、正確無比なフリーキックとペナルティキック……。

「それにドリブルが素晴らしかった。見ていて本当に楽しかった」と語るのは、かつてのチームメイトであったヤン・ミュルダーである。レンセンブリンクと親交の深かったミュルダーは、家族に代わって彼の訃報をメディアに告げたのだった。

 ミュルダーによればレンセンブリンクは、サイドで際立っていただけでなく、ペナルティエリア内でクロスを受けた後も違いを作り出せた。

 代表を含め633の公式戦に出場しての295得点は、ストライカーのポジションでのプレーがほとんどない選手の数字としては傑出している。バロンドールの投票でも2度トップ3に入っている('76年がフランツ・ベッケンバウアーに次ぐ第2位、'78年がケビン・キーガン、ハンス・クランクルに次ぐ第3位)。

ブレイクのきっかけはベルギーのクラブだった。

 トップクラスに至るまでの道のりは安易ではなかった。

 少年時代の彼に目を付けたのはエールディビジの中堅クラブであるDWSアムステルダムだった。アヤックスもまたフェイエノールトも、当時のレンセンブリンクには何の関心も抱いてはいなかった。

 新天地を求めたのは隣国ベルギーだった。'69年にクラブ・ブルージュに移籍して以降、欧州5大リーグではついに一度もプレーしないまま、11年間滞在したベルギーで彼は名声を確立した。2シーズンをブルージュで過ごした後、'71年には名門アンデルレヒトに移籍。たちまちサポーターを魅了し、敵の密集地帯にしなやかに侵入していく様には《Slangenmens(曲芸師)》の異名が与えられた。

 クラブ史上最高選手の評価を何度も受けた彼は、アンデルレヒトで349試合に出場して200ゴールを決め、'73年にはリーグ得点王を獲得、2度のリーグ優勝と4度のカップ優勝を果たした。

【次ページ】 ベルギーでの栄光以上のものを求めなかった。

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