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トータルフットボール、もう1人の
申し子。レンセンブリンクの生涯。

posted2020/04/02 07:00

 
トータルフットボール、もう1人の申し子。レンセンブリンクの生涯。<Number Web> photograph by L'Equipe

ビッグクラブでの活躍は無いが、ロベルト・レンセンブリンクの存在なくしてオランダ代表の躍進は無かった。

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ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

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L'Equipe

 少し前になるが、この1月24日にロベルト・レンセンブリンクが亡くなった。

 トータルフットボールのもとオランダ代表が世界を席巻した1970年代において、ヨハン・クライフやヨハン・ニースケンスが日なたのスターであったならば、性格的にも地味なレンセンブリンクは、彼らの輝きの陰に隠れた日陰のスターであったといえるかも知れない。

 経歴からして特異である。当時のオランダの王道であった、アヤックス(1971~73年チャンピオンズカップ制覇)ともフェイエノールト('70年チャンピオンズカップ制覇)とも関係がない。在籍したのはクラブ・ブルージュ、アンデルレヒトというベルギーのクラブだった。

 だが、オランダ代表において外様であるレンセンブリンクが、'74年西ドイツワールドカップでは、大スターであったピート・カイザーを差し置いて左ウィングのレギュラーを獲得し、クライフの去った4年後のアルゼンチンワールドカップでは、エースとしてチームをけん引したのである。

 また、ベルギーのクラブであるアンデルレヒトでは、レイモン・ゲタルス監督の下、アーリー・ハーン、ルート・ヘールス、フランソワ・バンデルエルストらオランダとベルギー代表の精鋭たちと、ヨーロッパにおける第1期黄金時代を築いたのだった(ちなみに第2期はモアテン・オルセン、エンツォ・シーフォ、ルカ・ペルゾビッチ、エルウィン・バンデンベルグらによる1980年代前半)。

『フランス・フットボール』誌1月28日発売号で、ロベルト・ノタリアニ記者がレンセンブリンクの追悼レポートを書いている。当時、ラディカルでセンセーションに溢れていたオランダ代表にあって、クライフとともに繊細さを表現していたレンセンブリンクの冥福を、心から祈りたい。

監修:田村修一

運命を分けた1本のシュート。

 '74・'78年のワールドカップファイナリストにしてオランダ代表史上屈指の左ウィングは、この1月に72歳で静かにその生涯を閉じたのだった。

 アムステルダム北方の小さな街オーストザーンで彼は静かに息を引き取った。その生涯において、運命を隔てたのは僅か数cmの違いだった。そのわずかな違いが、偉大な選手であった彼が、世界的なアイコンとなる道をへだてたのだった。

 ロベルト・レンセンブリンクにとって運命を分けた瞬間とは、彼のキャリアにおいて最も重要な試合であった'78年ワールドカップ決勝の、90分過ぎのことであった。

 レンセンブリンクがルート・クロルからのロングパスを受けたとき、時計の針は90分15秒を指していた。

 GKのウバルド・フィジョールは、レンセンブリンクの左足から放たれたシュートが、両手をあげた脇の下を通過していくのを空しく見送るばかりだった。

 だが、ボールは、ゴールポストを直撃して……。

【次ページ】 オランダに厳しかった、W杯決勝の笛。

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