ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
新日本を旗揚げした猪木への逆風。
倍賞美津子が宣伝車のウグイス嬢?
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2020/03/16 11:30
新日本プロレスの旗揚げ当時は逆境の連続だった。写真は茨城県立スポーツセンターで行われた旗揚げシリーズの一戦。
藤波辰爾「当時はないないづくし」
新日本の旗揚げメンバーである藤波辰爾は、以前取材した際、当時の様子を次のように語っている。
「あの頃、日本プロレスは猪木さんの新団体をなんとか潰そうとしていたんだよね。だから新日本が旗揚げを発表しても、日プロがマスコミに圧力をかけたから、記者会見にも記者が全然来なかったし、新日本の記事はスポーツ新聞にもほとんど載らなかった。また、地方のプロモーターにも日プロから『新日本の興行を買ったら、うちは売りません』というお達しが行っていたので、一切興行を買ってくれなかった。だから、新日本は手打ちで興行を打つしかない状況がしばらく続いたんだよね。
それと同時に海外には、(プロモーター連盟組織である)NWAなどを通じて新日本に協力しないように通達が行っていたから、外国人レスラーを呼ぶこともできない。唯一、猪木さんの師匠でもあるカール・ゴッチの協力で、ヨーロッパの無名選手を何人か呼ぶことはできたけど、ファンに名前が知られたアメリカの選手は1人も呼べなかった。とにかく、旗揚げ当初の新日本は、ないないづくしだったんだよね」
“逆境”を力に変えた猪木。
興行ルートも外国人選手の招聘ルートもマスコミも、すべてを断たれて四面楚歌に立たされていた猪木。興行を続ければ続けるほど赤字はふくらんでいったが、それでも黎明期の新日本プロレスの雰囲気は、決して悪くはなかったという。
「あの逆境がかえって猪木さんや我々の力になったんじゃないかな。『そうはいかん!』というね。確かに、旗揚げシリーズは数試合しか興行が組めなかったし、旗揚げ戦の大田区体育館以外は、地方に行くと、観客も数えられるくらいしかいない。『これが天下のアントニオ猪木の旗揚げシリーズか』と愕然とするくらいで、それがしばらく続いたんだけど、みんな必死だった。
猪木さんは自宅を僕らの合宿所に提供して、その庭に半分手作りで練習場を建ててね。そこで練習したあとは、我々レスラーも飛び込み営業をして、チケットを売って歩きましたよ。宣伝カーのウグイス嬢を猪木さんの当時の奥さんである倍賞美津子さんや、姉の倍賞千恵子さんがやってくれたり、選手や社員その家族までみんな一丸となって『なんとか新日本プロレスを成功させるんだ』って燃えていたから怖くなかったし、負ける気がしなかった。そういう熱意がファンにも伝わっていって、少しずつお客さんが増えていったんですよ」