ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
新日本を旗揚げした猪木への逆風。
倍賞美津子が宣伝車のウグイス嬢?
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2020/03/16 11:30
新日本プロレスの旗揚げ当時は逆境の連続だった。写真は茨城県立スポーツセンターで行われた旗揚げシリーズの一戦。
放漫経営に立ち上がった猪木。
“日本プロレス界の父”力道山が設立した日本プロレスは、1971年当時、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の「BI砲」が人気絶頂にあり、日本テレビとNETテレビ(現テレビ朝日)で週2回、ゴールデンタイムでテレビ中継されるなど、第2の黄金期にあった。
しかし幹部の放漫経営が原因で、莫大な収益をあげながら会社の内情は火の車というひどい有り様でもあり、ファイトマネーを不当に抑えられたレスラーたちの不満はどんどん溜まっていった。
そこで立ち上がり、幹部を追放するべく動き出したのが猪木だった。まず自らの後援会長でもあった経理士に日本プロレスの経理を調べさせ、多額の使途不明金を突き止めると、所属全選手の署名入りの幹部追放嘆願書を作成。それは選手会の要求が受け入れられない場合、全員が退団するというものだった。
しかし猪木のこの動きは、一部選手のリークもあり、事前に幹部に知られてしまうことになる。慌てた幹部はエースである馬場を始めとした主力選手を懐柔し寝返らせ、「猪木は社内改革と称し、会社乗っ取りを謀った」として、幹部会で猪木の除名処分を決定。猪木に乗っ取りの汚名を着せ永久追放したのだ。
テレビ放送はなし、集客にも苦戦。
日本プロレスを追われた猪木は、すぐさま新団体設立を決意。除名処分となった翌月、1972年1月26日に早くも新日本プロレス設立を発表し、3日後の29日には世田谷区野毛の自宅敷地に突貫工事で建てた道場も公開。そして3月6日に大田区体育館で旗揚げ戦を行なった。
しかし、テレビ放送はついておらず、所属レスラーもエースの猪木以外で知名度があるのは、せいぜい番頭的立場だった山本小鉄ぐらい。当然、観客動員には苦戦した。また、古巣の日本プロレスによる、さまざまな妨害工作にも苦しめられた。