草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
新庄の敬遠球サヨナラ打を呼んだ、
野村克也と“一番弟子”の絆。
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKyodo News
posted2020/03/11 11:50
阪神監督時代の野村氏。柏原(右)は1999年から3年にわたって「師匠」の政権を支えた。
テスト生だった自分と重ねて。
『柏原選手は古ぼけたダブダブのトレーニングウエアを着て、なんとも冴えないんです。そんなとき、スポーツ新聞社の仕事で練習を見て歩いている解説者が、やってきた。そして、いきなり「なんや、あれは。ほんまに野球選手かいな。あんなん、アカンで」と大きな声で柏原選手を酷評したのです』
本には解説者の実名は書いていないが、「じゃじゃ馬」の愛称で知られた青田昇氏である。それほどまでに野暮ったく、洗練という言葉とはほど遠かったのだろう。
しかし、この酷評に『腹のなかは煮えくりかえっていた』という若き兼任監督は野生児を磨き上げた。ドラフト8位。誰にも期待されなかったテスト生の自分と重ねた部分があったのかもしれない。
野村の動きに同調した柏原と江夏。
愛情を注がれた柏原は、3年目に一軍に昇格。6年目には初めて規定打席に到達し、16本塁打を放った。そして翌7年目。2人は大事件の渦中の人となる。
1977年9月26日。某スポーツ紙が1面で「野村解任」を報じた。その2日後には球団が正式発表。リーグ2位での退任理由は「公私混同」とされている。
当時の野村氏は前妻と別居。再婚同士となる沙知代夫人との間には、4年前に息子(楽天コーチの克則氏)が生まれていたとはいえ、W不倫状態だった。
これだけならよくある話だが、沙知代夫人がコーチ会議に首を突っ込んだり、選手の起用法に口を出しているという不平、不満が噴出。球団に「女を取るか、野球を取るか」迫られた野村氏は女(つまり沙知代夫人)を取ったとされている。
10月5日に自らの費用で記者会見を開いた野村氏は、公私混同を真っ向から否定。「スポーツに政治があるとは知らなかった」と、確執があった鶴岡一人元監督の圧力説をぶちまけた。
4番打者、正捕手、監督がチームを去りロッテへ。この動きに同調したのが「野村派」と言われた柏原と江夏だった。