草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
新庄の敬遠球サヨナラ打を呼んだ、
野村克也と“一番弟子”の絆。
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKyodo News
posted2020/03/11 11:50
阪神監督時代の野村氏。柏原(右)は1999年から3年にわたって「師匠」の政権を支えた。
同じマンション住んだ理由。
大阪府豊中市刀根山にあるマンションの2階に野村一家、1階に柏原、隣のマンションには江夏がそれぞれ住んでいた。騒動の間、3人は野村宅に籠もる。世に言う「刀根山籠城事件」である。そもそも監督と一選手がなぜ同じマンションに居を構えていたのか。
「あの事件のあった年に、引っ越してこいと言われたんです。練習のためですよ。試合が終わって、球場から帰ったらバットスイングをやるんです。毎晩、必ず」
このあたりの話は『続敵は我に在り』にも詳しいが、長嶋茂雄が松井秀喜を教えたように、野村は柏原を教えた。打撃の技術だけではない。
「刀根山は7年目の話だけど、それこそ1年目から社会人としての基本を教わったんです。熊本から出てきて何もわからん。人と話すときは俺ではなく僕と言え。安物でもかまわないから、スーツを買え……。すべてのことですよ。あいさつ、礼儀……」
監督であり、親だった。籠城は自然の成り行きだった。
放出された選手は活躍、ホークスは身売りに。
「監督が(籠城)したから自分もした。若かったから。もっと野球を教えてもらいたいと思ったから。なんとなくロッテの話も聞いていたから自分も一緒に行きたいですってね。ルール上、そんなこと認められん。今ならそう考えられる。うーん、当時もうすうすはわかっていただろうね。ただ、これで野球を辞めるかもしれんとは考えていましたよ」
肥後もっこすは引退する覚悟もできていた。しかし、ロッテへの移籍はかなわず。江夏は広島へ、柏原は1対2のトレードで日本ハムへ。野村派は解体された。
「今でも覚えていますよ。東京のホテルオークラの中華料理店で、監督とサッチーに言われたんです。おまえは日本ハムでがんばれとね」
柏原は翌'78年に初のフル出場を達成し、24本塁打、84打点の成績でベストナインとダイヤモンドグラブ賞(現在はゴールデングラブ賞)を初受賞した。江夏も、'79年の日本シリーズであの「江夏の21球」のドラマを生み出すなど、放出した選手は活躍したが、名門ホークスは凋落の一途をたどり、'88年についに身売りとなる。