テニスPRESSBACK NUMBER
引退シャラポワの「美学」とは。
専属日本人トレーナーが見た素顔。
text by
内田暁Akatsuki Uchida
photograph byYutaka Nakamura
posted2020/03/05 19:00
シャラポワを支えた中村豊コーチ。その生活ぶりには驚かされることが数多かったという。
全仏制覇のために請われた中村。
その後、中村は2009年末にオーストラリア・テニス協会に請われてアカデミーを離れ、協会のトレーナーとして2年間腕を振るう。
そして2011年末、今度はシャラポワから「自分のチームに加わってほしい」とのオファーを受けた。前回のような年数回のスポットではなく、ツアーに帯同する専属トレーナー。それは、シャラポワの中に明確にあった次なるステージへの一歩であり、中村にとっては、新たな旅のはじまりでもあった。
「当時の彼女は24~25歳。年齢的にも一番脂の乗っていた時期だったと思います。グランドスラムも既に3つ取っていて、残るのが全仏オープンでした。
2006年にスタートした時は、フィジカルとムーブメント全般を強化したいという感じでしたが、その時はよりピンポイントに、『クレーコートの動きが自分は下手なので、そこを一緒に強化できるトレーナーを探している』と言われました。
彼女にとっては、クレーコート=全仏オープン。そこに向けた身体の動かし方を求めていて、それに必要なのは筋力なのか持久力なのか……いずれにしても目的はクレーコートで勝つことで、そこに向けてトレーニングしたいとはっきり言っていました。だから2012年は、それぞれのサーフェス用の準備はしますが、常に頭のどこかでクレーコートというのがありましたね」
「氷の上の牛」がついに。
クレーコートは足元が安定せず、打ち合いが長くなるため持久力も求められる。かつて、フットワークにコンプレッスを抱いていたシャラポワは、自らを『クレーコートでの私は、氷の上の牛のよう』と自虐的に評したほどだ。
その彼女が、中村を招いて迎えた2012年シーズンでは、シュツットガルトとローマのクレーコート2大会を制する。そして6月――シャラポワは、狙い定めた通りにフレンチオープンのトロフィーを抱き、史上6人目となるキャリアグランドスラムを達成した。
決勝戦では、クレーを最も得意とするサラ・エラーニに6-3、6-2で完勝。7試合戦って僅か1セットしか落とさぬ、圧巻の戴冠だった。