オリンピック4位という人生BACK NUMBER
柳本晶一は“世界の猫田”に挑んだ。
<オリンピック4位という人生(4)>
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2020/02/02 11:30
1976年モントリオール五輪。エースセッターの座を奪えず、柳本晶一の出場機会は限られていた。
「これで僕の仕事、終わったのかなあ」
2004年5月14日、アテネ五輪最終予選・韓国戦。東京体育館は人で埋まった。視聴率は31.9%に達した。
宿敵にストレート勝ち。憧れの魔女を自らの手でオリンピックの舞台に戻したその瞬間、柳本の目は真っ赤に潤んでいた。
'04年のアテネは準々決勝で金メダルの中国に敗れて5位。'08年の北京でもやはり優勝したブラジルに敗れて5位だった。
少しずつ世界トップとの差をつめながらメダルに辿りついたのは、柳本の言葉通り改革をはじめて約10年後のことだった。
2012年のロンドン、女子バレーは28年ぶりとなる銅メダルを獲得した。監督は大商大高の後輩・眞鍋政義。柳本は代表のディレクターとして裏方にまわっていた。
韓国を破ってメダルを決めた後、喧騒のアリーナを後にした柳本は市街のワインバーでメディアや関係者と祝杯をあげていた。
そこへ一本の電話がかかってきた。
「(眞鍋)政義からでした。『柳本さん、ありがとうございました』と……。それを聞いた瞬間、ああ、よかったなあ、これで僕の仕事、終わったのかなあと思いました」
その手に形のないメダルを手にした瞬間、柳本はやはりコートの外にいた。
今、勝負から離れた柳本にあえて聞いた。
――もし監督だったら、モントリオールの猫田と柳本、どちらを使ったのか?
「俺やったら勝てたとは全然、思いません。勝敗は保証されないところにある。だから価値がある。人生を教えてくれる。ただ、なんで使ってくれへんのや! と思ってよかった。それがなかったら今はない……。それで答えになってますか?」
まるでどこかにいる猫田へ、語りかけているような表情だった。
柳本晶一(バレーボール)
1951年6月5日、大阪府生まれ。大商大附属高卒業後、帝人三原入社。翌年新日本製鐵に移籍後、選手、監督として8度日本一に輝く。'03年女子日本代表監督に就任。現在、スポーツ教室企画運営の「アスリートネットワーク」理事長。
◇ ◇ ◇
<この大会で日本は…>
【期間】1976年7月17日~8月1日
【開催地】モントリオール(カナダ)
【参加国数】92
【参加人数】6,084人(男子4,824人、女子1,260人)
【競技種目数】21競技198種目(女子バスケなどが追加)
【日本のメダル数】
金9個 高田裕司(レスリング・フリー52kg級)、体操男子団体 など
銀6個 道永宏(アーチェリー)、蔵本孝二(柔道・軽中量級) など
銅10個 安藤謙吉(ウエイトリフティング・バンタム級) など
【大会概要】女子体操でナディア・コマネチ(ルーマニア)が五輪史上初の10点満点を段違い平行棒と平均台で記録。アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカへオールブラックスを遠征させたニュージーランドの大会参加に抗議し、20カ国以上が出場をボイコットした。麻生太郎現・副総理がクレー射撃代表として出場。
【この年の出来事】ロッキード事件、田中角栄元首相逮捕。「記憶にございません」が流行語に。