オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<1964東京 フェンシング団体4位>
田淵和彦「敗戦に抗い続けた男」
posted2020/01/12 11:30

1964年10月、国立競技場で行われた開会式で最後に入場した日本選手団。
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
KYODO
2020年五輪イヤーにあたって、Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
1964年10月10日。改装したばかりの国立競技場が人で埋まっていた。
東京オリンピック開会式。
その9日前には東海道新幹線が開通。羽田空港と都心を結ぶ首都高速も整備され、敗戦から立ち上がった日本の首都は近代都市として生まれ変わった。
秋晴れの下、赤いブレザーに白いパンツの日本選手団が最後に入場してくる。
男子フェンシング主将の田淵和彦はその行進の中にいた。メインスタンドの貴賓席を見上げると、昭和天皇がこちらを向いている。現人神でも大元帥でもなく、国民の象徴として開会宣言を発する姿があった。
その声があの夏の日の記憶と重なった。
「昭和天皇を見て、あの日と同じ声を聞いて、ぐうっとこみ上げるものがありました。ああ、日本人でよかった。たまらないほどのエネルギーと勇気が湧いてきたんです。よく見て帰れ。これが日本だ、と。お前らには負けない、と強く思いました」
田淵はなぜ自分が西洋の剣を握ったのか。何を求めてこの舞台に立っているのか。この瞬間にはっきり悟ったという。
「これは一対一の決闘やと」
まだ8歳のとき、田淵は疎開先の明石郡神出村(現神戸市)で玉音放送を聞いた。
「堪ヘ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ……」
難解な言葉と独特な語調が田んぼの中に響く。大人たちは野良仕事をやめ、その場に座し、声にじっと聞き入っていた。
「戦争に負けたとかそういうことはわかりませんでしたが、平伏して涙する大人たちを見て、子供ながらに無性に寂しかった」
1945年8月15日。よく晴れた夏の日、幼心に染み入ったその終戦の日の記憶がやがて少年を大きな舞台へと導いていく。
田淵がフェンシングを始めたのは高校卒業後だった。父の知人で、1952年ヘルシンキ五輪代表の牧真一との出会いがきっかけだった。その場でいきなりやってみろと言われた。プロテクターの上からジャケットを着てニッカーズを穿き、さらにマスクを被せられた。その窮屈さとは裏腹に初めて知る西洋の剣術からは、なぜか自分が抱える閉塞感を解放し、価値観や心象風景を激変させてくれるようなものを感じた。
「これはお客に見せるためのもんやない。一対一の決闘やと思いました。何より外国に行ってガイジンと戦える。僕はずっと異国から日本を見たいと思っていましたから」
田淵は細く長く尖った剣を手にした。高校時代は野球部に所属し、投手として甲子園を目指したが、そのときには得られなかった手応えを求め、24時間をフェンシングに捧げた。昼はあえて京都の繁華街・河原町に繰り出し、人波を縫いながら向かってくる歩行者を相手に間合いの訓練をした。夜は枕元に2本の鉛筆とメモ帳を置いてイメージを描いた。
その結果、ローマ五輪の代表に選ばれた。
「予選で負けたんですけど、海外で戦ってはっきりと感じたことは、日本はこのままじゃ勝てんということでした」