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「監督、俺を使ってください!」バレーボール男子・柳本晶一が挑んだ“世界の猫田”と探し出した竹下佳江《連載「オリンピック4位という人生」1976年モントリオール》

カナダ南東部、モントリオール・フォーラムのコートに柳本晶一の叫びが響いた。
「監督、俺を使ってください!」
25歳、初めてのオリンピック。国内ではすでに強豪・新日鐵のエースセッターとして日本一に輝いていた。182cmの長身から左右でスパイクが打てる司令塔として、実績も自信も両手に余るほどだった。
だが、当時の代表チームにおいて、柳本のポジションはいつもコートの外だった。ミュンヘン五輪で金メダルを獲得したメンバーが主体であり、何よりも不動のセッター・猫田勝敏がいたからだった。

東京の銅、メキシコの銀、そしてミュンヘンの金と3色のメダルを持ち、日本が生み出したクイック、時間差攻撃は猫田なくしては成り立たないと言われていた。
「自分は日本一チームのセッターでしたけど全日本にいったら使ってくれない。一度もスタメンで出たことはありません。もう嫌になりますよ。最初はオリンピックのコートに立つために夢も希望も抱いて、俺のトスでメダルをとるんだと死にもの狂いで練習する。でも試合になったら水汲みばっかり。もうだんだんと朝起きたら『猫田、ケガせえ。猫田、ケガせえ』と心の中でロウソク立ててましたわ」
日の丸をつけた柳本の仕事は球拾いと水汲みと夜のウイスキー・ソーダ割り係。練習はいつも最後の15分間だけだった。
やり場のないマグマを秘めたその胸中を知ってか知らずか、猫田はオリンピック前、柳本を飲みに誘った。
記憶では数人で五反田の鉄板焼き店へ。
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