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<オリンピック4位という人生(2)>
メキシコ五輪「室伏が追った鉄人」
posted2020/01/19 11:40

3大会目の五輪出場で、選手団の団長も務めたハンマー投げの菅原武男。
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
PHOTO KISHIMOTO
2020年五輪イヤーにあたって、Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
これまでと同じように、同じだけの力で投げればよかった。メダルを獲るにはそれでいいはずだった。
1968年10月17日、メキシコ・オリンピック、男子ハンマー投げ決勝。
菅原武男は5投目で69m78を投げ、ハンガリーの選手と同記録で3位に並んでいた。最終6投目、あとは相手のセカンド記録(69m38)を越えさえすれば、日本の同競技史上初のメダル獲得だった。
4投目、5投目と続けて69m台を投げていた菅原にしてみれば、手に残っている感触をそのまま再現すれば、その可能性は高かったはずだ。だが、菅原が望んだのはもっと遠くの形のないものだった。
「僕は記録を出したかった。世界記録を出すのが夢でしたから。野心があったからかな。いつもよりスピードが出て、フィニッシュでそれを支えきれなかった」
標高約2300mの高地、エスタディオ・オリンピコの空にありったけの力で放った鉄球は願ったところよりかなり手前に落ちた。61m40。メダルを手にした者と、できなかった者の差はセカンド記録のわずか32cm。その残酷を嘆いた者は多かった。
小さな日本人が見せた“魔法”。
ただ、当の本人の胸にはまったく異なる思いが浮かんでいた。
「オリンピックの後にもっと試合があればいいのになあと。そうすれば、もっともっと飛ばせる気がしていたんです――」
タケオ・スガワラはどの国の、どの競技場にいってもカメラを構えた他国の関係者に囲まれた。3回転が主流の当時、世界でただ一人の4回転スローワーだったからだ。
スピードを上げ、遠心力を増幅させれば遠くへ飛ばせる。そのためにターン(回転)の数を増やすという発想は当時、誰もが持っていたが、実際に4回転して投げる技術を完成させていたのは菅原だけだった。
メキシコ五輪で入賞した6選手の平均が185cm、97kg。そんな大男たちばかりの中で174cm、85kgという小さな日本人が誰より速く多く、くるくるとまわって同じ距離を飛ばす。この“物理の魔法”はあらゆる競技者の視線を集めた。
「体がないというハンディがありましたから、技術で対抗するしかない。そのために想像力とか夢を大切にしていました」
メキシコでは印象的なシーンがあった。陸上男子200mでメダルを獲得したアメリカの2選手が表彰台で国歌の演奏中、星条旗から視線を外し、黒手袋の拳を突き上げ、黒人差別への抗議を示したのだ。世の批難を浴び、オリンピックから追放されるふたりの姿を菅原は同じ競技場で見ていた。
「僕は別にかまわないと感じた。良い、悪いじゃない。自分のものの見方、考え方に責任を持っていればそれでいいと思った」
世界で唯一の技術を持つ男はその視点や価値観も、他とは異なっていた。