ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
鈴木みのると中井祐樹が語るあの頃。
パンクラスは修斗の仮想敵国だった。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2019/12/28 20:00
パンクラスを旗揚げ当初の鈴木みのる。25年を経て、“あの頃のシューティング”の顔である中井祐樹とタッグを組む。
修斗とパンクラスの冷戦。
そんな修斗にとって不遇の時代は、90年代半ばに終わりを迎える。'93年11月に第1回UFCが開催され、ホイス・グレイシーが優勝。格闘技界ではグレイシー柔術が持て囃されるようになり、またバーリ・トゥード(MMA)形式の試合でプロレスラーが次々と敗れたことで、時代は一気にバーリ・トゥード(総合格闘技)へと傾いていく。格闘技界の流れが変わったことで、80年代からリアルファイトの総合格闘技に取り組んでいた修斗が、ついに注目を浴びるようになったのだ。
それと時を同じくして、藤原組を退団した鈴木みのるや船木誠勝らが'93年9月にパンクラスを旗揚げ。UWF系で初めて「全試合完全実力主義」を打ち出したパンクラスのシビアな闘いは、“秒殺の格闘技”と称され、マット界に旋風を巻き起こすこととなる。
こうして修斗とパンクラスは、同じ“総合格闘技”にカテゴライズされる人気プロモーションとなったが、お互いに似ているが故に反目するようになり、そこから長年、“冷戦”状態が続くことになるのだ。
相容れない両者が25年を経て。
その対立構造の原因を、鈴木みのるはこう語っている。
「パンクラスも修斗も、やってることはどちらも、今で言う『総合格闘技』に分類されるものだけど、成り立ちが真逆なんですよ。修斗はもともとイチから道場生を募って、その中の強い者をプロとして認定して作った世界ですよね。俺たちはプロレスをやっている人間から集めて、『このルールでやろう』ってことで始まったのがパンクラスなんですよ。つまり、競技をプロ化したのが修斗で、興行ありきのプロレスを競技化したのがパンクラスだった。
だから、'93年時点のプロである俺たちの考えからしたら、修斗に対して『そんな町道場あがりの奴らとは一緒にすんなよ』っていう気持ちがあったし、修斗側からすれば、『プロレスなんかやってた奴らと俺らを一緒にするんじゃねえよ』という考え。そこはお互い譲れないし、相容れないよね」
そして当時、鈴木は船木と並ぶパンクラスの象徴であり、中井もまた、修斗の顔とも言える存在。そんな両者が、“あの頃”から25年の時を経てタッグを組むのが、12月30日のハードヒットなのである。