ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
鈴木みのると中井祐樹が語るあの頃。
パンクラスは修斗の仮想敵国だった。
posted2019/12/28 20:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Essei Hara
先日、鈴木みのるがツイッターで次のようなつぶやきを投稿していた。
「12/30ハードヒット。『あの頃のパンクラスとあの頃のシューティング組』vs『UWFのはじまりとその後のパンクラス組』 格闘技やプロレスに関わる人たちに、この試合で伝えたいことがある。エキシビジョンではあるが、全力フルスロットルだ」
ここで鈴木が語っている試合は、鈴木の弟子でもあるパンクラスMISSIONの佐藤光留がプロデュースする、いわゆるUWFスタイル(格闘技スタイル)のプロレス興行「ハードヒット」の12・30東京・ニューピアホール大会で組まれた、鈴木みのる&中井祐樹vs.藤原喜明&近藤有己のグラップリング・エキシビション・タッグマッチのこと。
“あの頃のパンクラス”とは鈴木のことであり、“あの頃のシューティング”が、そのパートナーである中井祐樹のこと。そして“UWFのはじまり”とは藤原喜明で、“その後のパンクラス”が近藤有己だ。
この一戦、“あの頃”を知っている人にとっては感慨深いものがあるだろう。なぜなら、かつてシューティング(現・修斗)にとってUWFや、その後のパンクラスが“仮想敵国”的な存在であった時代があり、互いに相容れない関係にあったからだ。
「全部『違う』と思ってました」
日本の総合格闘技の元祖といってもいい修斗(シューティング)は、もともと初代タイガーマスクとして知られる佐山サトルが、前田日明、藤原喜明、高田延彦らと闘っていた第一次UWFを離脱後、'86年から本格的にスタートさせたもの。
しかし、選手はアマチュアをイチから育てたため、プロ化したあとも有名選手がおらず、興行的には極めて苦しい時代が何年も続いた。その一方で、'88年に前田日明らが旗揚げした第二次UWFは社会現象とまで言われる大ブームを巻き起こし、'91年1月に解散、3派分裂したあとも、藤原組、リングス、UWFインターナショナルの各団体はそれぞれ大会場を満員にし続けた。
90年代前半まで、修斗とUWF系団体には、人気と世間的な認知度、そして経済面のすべてにおいて、圧倒的な格差が存在したのだ。
当時から修斗は総合格闘技であったが、UWF系はあくまで格闘技色の強いプロレス団体。しかし、世間的には同じ“格闘技”として見られていたため、修斗側はUWF系に対し、怒りや恨みにも似た感情を抱いていく。
その当時のことを、中井祐樹はのちにインタビューした際、こう語っていた。
「当時、(U系がやっている試合は)全部『違う』と思ってました。ボクらがやっている試合とは全然違うことです。でありながら、向こうは大会場を満員にして、こっちは後楽園ホールですらいつもガラガラ。その状況に対して、今思えば勝手に恨みを抱いて、いつもイライラしていた気がします」