ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
ライガーが佐野直喜にこだわる意味。
「死ぬぞ」とも言われた本気の抗争。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2019/12/11 19:00
ライガーが引退試合の相手として希望した佐野直喜。あえて当時のリングネームでリングに上がる。
「そんな試合をしてたら死ぬぞ」
「佐野さんは、やっぱり同期だから、お互いに負けたくないという気持ちが強かったし、よけいなことを考えずにバチバチと本気で向かっていけたんです」
ライガーと佐野の試合は、回を重ねるごとに激しくなり、華麗さだけではない、ゴツゴツとした新たなジュニアの名勝負となっていった。佐野直喜という同期のライバルを得ることで、ライガーは本領を発揮し、ついにブレイクをはたしたのだ。
両者の過激な闘いは、タイガーマスクのライバルだった小林邦昭をして、「おまえら、そんな試合をしてたら死ぬぞ」と言わしめるほど。このスタイルが、今や伝説となっている“90年代 新日ジュニア”の原点でもある。現在、世界で人気を博す新日ジュニアの礎を、ライガーは佐野とともに築いたのである。
「だから佐野さんがいなかったら、いまのライガーはないですね。それはハッキリ言えます。それぐらい、僕にとっては大きな存在でした」
同世代のライバルはたった1人。
しかし両者のライバル抗争は、'90年3月に佐野が新日本を退団、新団体SWSに移籍することで、わずか半年で終わってしまう。その後、ライガーは長年、ジュニアの象徴として活躍し続けたが、自身が絶対的なトップに立つことより、ジュニアヘビー級全体を底上げすることに注力していた感があった。
クリス・ベノワ、2代目ブラックタイガー、ウルティモ・ドラゴン、エル・サムライ、ザ・グレート・サスケ、大谷晋二郎、金本浩二など、多くのジュニアトップ選手と対戦してきたが、彼らは皆、ライガーにとって後輩であり、「こいつだけには絶対に負けたくない」という同世代のライバルは、佐野ただ1人だったのだ。