ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
ライガーが佐野直喜にこだわる意味。
「死ぬぞ」とも言われた本気の抗争。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2019/12/11 19:00
ライガーが引退試合の相手として希望した佐野直喜。あえて当時のリングネームでリングに上がる。
再燃したライガーと佐野の抗争。
若手時代に幾度となく対戦した両者のライバル関係は、'86年8月に山田がイギリス遠征に出たことで一旦終止符が打たれる。山田に遅れること8カ月、佐野も'87年4月にメキシコ遠征に出発。'89年1月に帰国するが、ちょうどその時、山田は2度目の海外遠征中であり、すれ違いが続いた。
そして'89年4月24日、日本プロレス史上初の東京ドーム大会で、イギリスから帰国した山田は獣神ライガーに変身して再デビュー。'89年夏、そのライバルとして佐野の存在がクローズアップされることで、両者の抗争は再燃する。この佐野との抗争が、ライガーを本当の意味でジュニアのトップに押し上げることとなるのだ。
じつはライガーは、ダイナマイト・キッド戦で鮮烈デビューを飾った初代タイガーマスクのように、最初から人気が爆発したわけではない。4.24ドームでの小林邦昭とのデビュー戦では、初公開のライガースープレックスで勝利したものの、慣れないマスクや初めてのドームという重圧のため、“衝撃デビュー”とはいかなかったのだ。
スタイルをどう作り上げるのか。
また当時は、タイガーマスクが活躍していた頃と違って子供のプロレスファンは少なく、高校生や大学生のファンが中心。“格闘プロレス”であるUWFブームの真っ只中でもあり、そんな時代に「アニメから飛び出してきたヒーロー」であるライガーは、場違いな感すらあった。
ライガー自身、どうしても初代タイガーマスクと比較されてしまうことや、素顔の山田とは違う、ライガーとしてのスタイルをどう作り上げるのか、常に試行錯誤していたと、のちに語っている。
そんな時、ライガーの前に立ちはだかったのが佐野だった。