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8年間でスタメンマスクは10試合。
DeNA西森将司、去り際の笑顔と感謝。
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph byMasashi Nishimori/Instagram
posted2019/12/06 19:00
多くのファンの記憶に残る選手ではなかったかもしれない。しかし、西森将司は間違いなく日本最高峰のリーグで戦う「プロ野球選手」だった。
最初は育成ドラフトの2位指名。
西森がベイスターズに入団したのは2012年だ。北照高からHonda、香川オリーブガイナーズと歩んできた捕手は、入団時すでに24歳になっていた。しかも、育成ドラフトの2位指名。置かれた立場は最初から厳しかった。
使えるか、使えないか。可能性を見極められ、後者と判断されれば即、さようなら。それは十分にあり得るシナリオだった。
だが、ひとつの出会いが西森を変える。
育成契約のまま早くも勝負の2年目を迎えた2013年、大村巌がファーム打撃コーチに就任した。
それこそが分岐点だった、と西森は振り返る。
「あのままやってたら、たぶんもう、その年にクビになってたかなって。そのままの流れで野球して。来た球打って、来た球捕って。そういう時間を過ごしていた気がします」
大村は、西森に話をした。
「一軍も二軍も関係ない。自分がスキルを上げるために、一日一日を後悔ないように過ごせ。野球を辞めるときになって、『あのときやっておけばよかった』と後悔することがないように」
その言葉は、漫然と野球に取り組んでいた25歳の心に響いた。西森は、半端な日常に流され、「試してみたけど使えなかった選手」として終わりを迎える未来を拒んだ。いつか終わりが来るにしても、悔いがない日々の積み重ねの先にその日を迎えようと決めた。
ついに2013年7月17日、支配下登録へ。
大村は、スイッチヒッター転向を目指して左打ちの練習をしていた西森にとことんまで付き合った。「こうすれば、打てる。率は残せるぞ」。全体練習後、何時間もバットを振る若者にアドバイスを授け続けた。
西森は、「親に感謝したい」と笑うように、俊足強肩の身体的素質に恵まれた。捕手を本職としながら、1年目のシーズン途中からは、外野手としてファームの試合に出場した。
さらに、猛練習の甲斐あって、左打ちでも結果を出せるようになってきた。
天に張られたロープに、次々とフックを投げ、掛けた。頼りなかった命綱も、束になれば頼もしかった。
「マルチプレーヤーとして売り込んでいける」
西森のアピールは実る。2013年7月17日、支配下登録されたのだ。
すぐに一軍初昇格も果たし、これを足がかりに翌2014年、西森は最大のチャンスをつかみにかかる。