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引退決意の坪井慶介が無名だった頃。
恩師が明かす大学時代の挫折と覚醒。
posted2019/11/15 11:40
text by
石倉利英Toshihide Ishikura
photograph by
JUFA/Reiko Iijima
1997年秋。福岡大サッカー部の練習に、1人の高校生が参加した。
三重県の名門・四日市中央工業高(四中工)の坪井慶介は、法政大への進学を目指してセレクションを受けたが、不合格となっていた。当時、四中工の監督を務めていた樋口士郎氏(現ヴィアティン三重・強化部長兼アカデミーダイレクター)は、福岡大サッカー部の乾真寛監督に連絡を取り、「見てもらえないか」と坪井の練習参加を打診する。
「坪井慶介と言われても、存在すら知らなかったんですよね」
'84年に福岡大のコーチとなり、'90年から監督を務めていた乾氏は、そんな感じだったと振り返る。だがその無名の高校生は、当時福岡大2年でのちに日本代表にも選ばれるFW黒部光昭と練習でマッチアップすると、真っ向勝負を演じてみせた。
「ステップワークも含めた対応力が高く、普通の高校生なら苦戦するはずの大学生を相手に、しぶとく食らいついていました。これは面白い選手だと思ったんです」
成長を後押しした黒部の存在。
乾氏は、面接したときの姿が今も忘れられないという。
「現在と同じように、目をキラキラと輝かせていて。『自分には高校からJリーグに行ける力はないけれど、大学の4年間で成長してプロになりたい』と、しっかり語っていました」
福岡大は11月中旬の推薦入試を控え、サッカー部の推薦枠が、あと1つだけ残っていた。誰にするかを決めかねていた乾氏は、そこに坪井を入れることを決断する。
最後の1枠に滑り込んだ無名の高校生は、4年間で「有言実行」の成長を遂げてJリーガーとなり、日本代表としてワールドカップにも出場する。11月7日に現役引退を発表した今季まで続いた、サクセスストーリーの始まりだった。
入学後に坪井の成長を後押ししたのも、推薦枠に滑り込んだときと同じ、黒部の存在だった。乾監督は当時のことを、よく覚えているという。
「FWとDFですから、練習で毎日マッチアップして、バチバチやり合っていました。黒部がいたことが、坪井にとっては非常に大きかったと思います」