酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
金田正一vs.長嶋・王のドラマ性。
初対決は三振の山、でもその後は。
posted2019/10/09 11:15
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kyodo News
後年の野球ファンから見れば、金田正一は長嶋茂雄、王貞治などとともに「昭和の大選手」というカテゴリーにひとくくりにされることになる。
しかし、金田正一は当時、ONとは別格の存在だった。それだけに、猛烈な敵愾心を燃やして2人と対戦したのだ。
金田がプロ入り前から高い注目度を誇っていたエピソードがある。1950年の春、金田はまだ享栄商の野球部にいた。すでにその豪腕ぶりは鳴り響き、南海、中日などのスカウトが触手を伸ばしていた。
この年に創設された国鉄スワローズの監督、西垣徳雄は、その目で金田の投球を見て驚き、当時の国鉄総裁・加賀山之雄に直談判をして20万円という支度金(契約金の一部)を用意して金田の父を説得したという。
その年の1月に1000円札が初めて発行されたが、当時はまだ普及しておらず、100円札2000枚の札束を積み上げて、金田の父を説き伏せたのだ。契約金は総額50万円だった。
金田自身は決断を保留したが、7月の愛知県大会準決勝で一宮高校に負けると金田は自身の17歳の誕生日である8月1日に入団を決意。享栄商を中退して8月10日に国鉄に入団すると、8月23日の広島戦でプロ初登板を果たしている。
17歳にして8勝、国鉄のエースに。
驚異的なのは、ここから金田が閉幕までに164.2回を投げて8勝(12敗)していることだ。7位に沈んだ国鉄で17歳の少年は、いきなりエースになったのだ。翌年から金田は毎年300イニングを投げ20勝投手となる。
そして1958年、立教大学から2学年下の長嶋茂雄が巨人に入団する。入団発表とともに、後楽園スタジアムの株価が急上昇する騒ぎだった。
この年の開幕時点で金田は入団以来すでに182勝、当時の現役投手の勝利数では巨人・別所毅彦の285勝、中日・杉下茂の200勝に次ぐ3位だった。別所、杉下ともに引退間近だったが、金田はまだ24歳だった。
当時の新聞のスポーツ欄は、東京六大学とプロ野球の記事掲載面積がほぼ同じで、「大学とプロではどちらが強いか」が真剣に議論されていた時代だった。それだけに学歴で言えば中卒、高校中退の金田正一は、大学エリートの長嶋茂雄を強烈に意識した。
オープン戦で長嶋茂雄は7本塁打を記録、プロでも当然大活躍するものと期待感が高まっていた。