松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
パラ柔道、廣瀬悠・順子夫妻。
「続ける理由」に松岡修造混乱!?
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/09/05 07:00
廣瀬悠・順子夫妻と松岡修造さん。取材は“柔道の聖地”講道館にて行われた。
「命が危ういという経験もしたから」
順子「最初は、視力が落ちても特にショックを受けていなかったんです。というのも、膠原病が治れば視力は元に戻ると言われていたから。でも、実際には退院の時に『今の視力は戻らないです』と言われてしまって。ただ、その時はもうなんだか自分の中で受け入れていて、『やっぱり』という感じでした」
松岡「やっぱり? 『先生の嘘つき!』じゃなかったんですか」
順子「入院が長引いて、ICU(集中治療室)に入っていた時期もあったんです。命が危ういという経験もしたから、目が悪くなったことよりも、元気になれた喜びの方が大きかった。それでショックをあまり受けなかったのかもしれません」
松岡「でも、見えていた世界が急に見えなくなったんですよね。最初から見えなかったんじゃなくて、途中から見えなくなる方がショックは大きい、という話をよく聞きます」
順子「そうですね。前向きではいられたんですけど、退院後にまた大学に入り直して、周りの子がすらすらと勉強しているのに私は教科書が読めなかったり、アルバイトもしてみたいけどできなかったり、あと車の免許を取ったのに車が運転できないとか、いろいろなことを諦めないといけない悲しさはありました」
松岡「文字も読めなくなったんですか」
順子「文字はパソコンで22ポイントぐらいに大きくすると読めるので、教科書もぜんぶ自分でそのくらいに拡大コピーしたものを学校の授業に持ち込んでました。けど、目が見えづらくて困ったときは仲良くなった友だちがすごく助けてくれました。辛いこともありましたけど、大学時代が一番楽しかったかな」
松岡「普通の人より時間が掛かってしまうのですね……。
でも、障害を持ってから、順子さんはまた柔道を始めるわけですよね。なぜ始めよう、と思ったんですか」
順子「小学5年で柔道を始めて、高校まででやりきった感があったんです。ぜんぜん遊んだりもしていなかったので、違うことがしたくて辞めたんですけど、目が悪くなってからはむしろ諦めることの方が多かった。一生懸命取り組めるものとか、夢中になれるものがなくて、もう一度柔道を始めたら以前のように一生懸命になれるかなと思ったのがきっかけです」
松岡「自分の後ろ向きな心を変えられる可能性が柔道にあると思ったんだ。でも、パラスポーツには柔道以外にも色々あるじゃないですか。新しいものにチャレンジしようとは思わなかったんですか。その方が新鮮で面白いかもしれませんよ」
順子「私、スポーツが元々苦手で、すごく運動神経が悪いんですよ」
松岡「エッ、そうなんですか? でも柔道もやっていて、インターハイにも行ってるじゃないですか(笑)」
順子「走ることとか球技が本当に苦手で。ただ、力だけは強かったので、柔道なら自分でもできるかなって思ったんです」
松岡「それで柔道をまた始めて、視覚障害者柔道もすぐに強くなっていったんですか」
順子「いえ、最初は体力も落ちていたし、ついていくのに必死でした。初めて視覚障害者柔道の合宿に行ったときもアザだらけになって、楽しいというよりはしんどかったです」