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北京からリオに繋がったバトン。
朝原宣治と山縣亮太が語る4×100。
posted2019/08/16 11:00
text by
宝田将志Shoji Takarada
photograph by
Naoki Nakanishi/JMPA
Number977号(2019年4月25日発売)の特集記事を全文掲載します!
あのバトンは今、日本陸連の事務所にある鍵付きキャビネットに保管されている。中国・北京国家体育場、通称“鳥の巣”の夜空に、朝原宣治が歓喜の雄叫びとともに放り投げた朱色と黄緑色のバトンだ。
2008年8月22日、北京五輪陸上男子4×100mリレー。塚原直貴、末續慎吾、高平慎士、朝原による日本チームは3位に入り、男子トラック種目で日本史上初となる五輪のメダルを獲得した。
11年後、朝原は日本短距離の金字塔となったレースを、こう振り返る。
「決勝は、もう高平君からバトンをもらって以降は記憶がないんですよね」
重圧、覚悟、集中……それらが凝縮した空間を、チーム最年長の36歳は駆け抜けた。
朝原「あんなに緊張したのは初めて」
決勝前日の21日に行われた予選を日本は全体3位のタイムで通過していた。アメリカ、イギリス、ナイジェリアといった強豪はバトンミスなどで敗退。千載一遇のチャンスが目の前にぶら下がった。
「みんな『メダルを取れるかもしれない』というのは心にあったんですけど、簡単には口にしなかったですね。僕も初めてでした、あんなに緊張したのは。考えれば考える程、怖いんですよ。これでもし変なミスをしたり、しょうもない走りをしたら、ただじゃ生きていけないなって」
朝原は北京五輪を花道にスパイクを脱ぐと決めていたから、余計に息が詰まりそうだった。夜、選手村の共有スペースに4人は集まり、遅くまでとりとめのない会話を続けた。決勝の朝を迎えてもチームの雰囲気は重く淀んだままだったという。朝原は人混みで気が散るのを嫌い、選手村の食堂には行かず、日本の選手団が現地に持ち込んだレトルトのカレーで昼食を済ませた。