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北京からリオに繋がったバトン。
朝原宣治と山縣亮太が語る4×100。
text by
宝田将志Shoji Takarada
photograph byNaoki Nakanishi/JMPA
posted2019/08/16 11:00
北京五輪陸上男子4×100mリレーでアンカーとして駆け抜けた朝原宣治(左)。彼らの走りと、蓄積したデータがリオ五輪の銀メダルにつながった。
記事を見て実感したメダル獲得。
アンカーの朝原はジャマイカ、トリニダード・トバゴに次いでフィニッシュ。悲願を達成した彼は深夜、選手村にあったパソコンの前に座っていた。
「それまでの積み重ねが長すぎたんです。日本人にはメダルは難しいと、みんな思っちゃったし、だから僕らも緊張した。メダルを取ってもそれが現実なのか、よく分からない感覚だったから、ニュースサイトで調べてね。そうしたら、ものすごく記事が出ていて『やっぱり取ったんだ』って。塚原もとなりで同じことをしていました(笑)」
昨年、北京五輪の検体のドーピング再検査で優勝したジャマイカの失格が確定。日本は銀に繰り上がった。
北京の走りが山縣らに与えた影響。
朝原らの乾坤一擲の大勝負を、広島市内の自宅のテレビで見ていた高校1年生がいた。8年後の'16年8月19日、リオデジャネイロ五輪で、飯塚翔太、桐生祥秀、ケンブリッジ飛鳥と4×100mリレーを組み、銀メダルを獲得する山縣亮太だ。
「北京はファン目線で見てました。チャンスだと思う一方で、でも簡単じゃないんじゃないかとも思っていて。その後の練習ではバトンを放り投げる(朝原さんの)真似とかしていましたよ」
北京の4人が変革したものがあるとすれば、それは列島の若きスプリンターたちの意識だろう。山縣も日本人が実際に五輪の表彰台に立った姿を励みに、翌'09年の世界ユース選手権100m4位、メドレーリレーで銅に輝き、こう考えるようになった。
「北京五輪当時、僕の100mのベストは10秒7とか8だったんですけど、いつか日本代表に入ってリレーでメダルを、と思いましたよね。世界でメダルを取る。それも陸上のスプリント種目だと厳しいんじゃないかと感じてしまうけど、(年代別の世界大会で)1回取って、海外勢と同じ成長率で行けば、シニアになってもチャンスがあると希望が持てました」