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〈金足旋風の秘密〉吉田輝星が明かす“甲子園を逃した4度目の夏”「暴れました。結局、負けを人のせいにしていたんです」
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph byAFLO
posted2021/08/15 11:03
夏の甲子園100回大会で“金足旋風”を巻き起こした吉田輝星
「(1984年の)金農旋風の話は、父さんが高校で野球をやっていたときと同じ(嶋崎久美)監督さんだったので、父さんからも、監督は怖かったし、厳しい学校だと聞かされていました。それでも『アメトーーク!』や秋田のローカル番組、甲子園の中継の合間とか、そういうところで金農旋風がよく紹介されるじゃないですか。僕はずっとそれに惹かれていたので……」
吉田の記憶にある金足農が最後に甲子園に出たのは、吉田が小学校1年のとき。進路を考える中学2年、3年のときの金足農は2年続けて夏の秋田大会で初戦敗退を喫していた。それでも吉田は金足農の野球部の門を叩く。
「今、思えば、まっすぐだったら絶対に打たれていなかった」
そして1年の夏からベンチ入りを果たし、秋田大会の2回戦、横手との試合で1点ビハインドの場面で2番手として登板した。吉田はそこで4イニングを投げてヒット2本、8個の三振を奪い、逆転を呼び込むピッチングを見せる。3回戦の能代工戦でも2点ビハインドの3回途中からマウンドへ上がり、5回に金足農が同点に追いついた。そのまま投げ続けた吉田だったが、8回裏、痛恨の決勝点を奪われ、最初の夏が終わってしまう。吉田が当時をこう振り返った。
「1年生の夏は、点差もまったく気にしていませんでした。ただ、普通に投げられたんですけど、普通すぎたと言いますか、接戦で投げているという感覚もなくて、8回に打たれて1点取られて、初めて、あれっ、これで負けるのか、という感じでした。1年生が3年生の中で投げるのもプレッシャーでしたし……」
8回裏に決勝打を許したのは得意のストレートではなく、スライダーだった。吉田はそのことには悔いを残していた。
「今、思えば、まっすぐだったら絶対に打たれていなかったと思います。でも、あのときは3年生のキャッチャーを信頼していましたし、何の躊躇もなく、サインがスライダーだからスライダーでいいや、みたいな感じでした。そういうところですよね。勝つことへの執着がなかったというか、考える余裕がなかったんだと思います」
チームを強くした“秋の1敗”
吉田、1年の夏は秋田大会の3回戦で敗れ、1年の秋は秋田で一つも勝てず、センバツは遥か彼方。2年の夏はエースナンバーを背負って秋田大会の決勝まで勝ち上がったものの、明桜にヒット10本を浴びて1-5で敗れる。
「2年生の夏は、本当に(甲子園へ)行けるぞという感じになっていて、でも、じつは大会中、けっこうヒジが痛かったんです。思うようなボールが行かなくて、スライダーに頼るピッチングになってしまった。投げ合った同級生の(明桜の)山口(航輝、現在はマリーンズ)よりもいい球を投げられていませんでしたし、同じ東北の八戸学院光星、聖光学院、仙台育英は雲の上の存在でした。もっと圧倒的な力をつけなきゃ、甲子園へは行けないなと思いました」