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千葉雅也が考える身体と精神のいま。
「効率よく金を稼ぐ体」から離れて。
text by
八木葱Negi Yagi
photograph byKiichi Matsumoto
posted2019/08/15 08:00
身の回りで起きた小さなことの話が、抽象的な論理につながっていく。千葉雅也氏の思考はとんでもなくスリリングだ。
スポーツは、解釈を1つに決めるもの。
――たしかに、それだとスポーツはできなさそうです。
千葉 スポーツの場面では、たとえどれだけ選択肢が浮かんだとしても、その中から解釈を1つに決めて素早く行動に移すことが優先される。なので、知性の方向性が全く違うんです。
――自分の身体がとっさに動かないことは、千葉さんにとってはコンプレックスだったりするんですか?
千葉 そのコンプレックスはもちろんあります。だからこそプロレスラーに憧れるわけですから(笑)。
ただ僕が気になっているのは、身体と精神の二項対立は近代以降のものだっていうことなんですよ。たとえば、プラトンはレスリングが強かったっていう話もあるし、古代ではその2つが一致していた可能性がある。色んな解釈が繁殖するっていう現象自体が近代的で、それに応じて体が動かないというのも近代特有の病なのかもしれませんね。つまり、体育会系と文化系の対立はデカルトで始まったのかも(笑)。
今と違う形で身体と精神を一致させる。
――精神と肉体は別物である、と。
千葉 そう。でもその身体と精神の対立が近代特有の問題だとすれば、それを乗り越える方法も考えられるはず。僕はきっと、古代に戻るのとはまた違う形で、身体と精神の新たな融合を考えたいんでしょうね。
たとえば、哲学者の入不二基義さんは哲学とレスリング選手としての身体を両立させている。僕にそれができるかというと、まだできない気がする。何か心身問題のパズルのピースがまだ足りない……入不二さんにはそれが見つかっているんじゃないかという気がします。
僕が「ネオリベに対抗して自分自身の体を取り戻す」と言う時に参照しているのは、ミシェル・フーコーです。フーコーは晩年に、古代ギリシャで使われていた「自己への配慮」というフレーズに注目しているんですが、それは日記を書いたり食べ物に気をつけたり運動したりすることです。これは一見すると、自分のことは自分でどうにかするという現代のサバイバル精神とも似ていて、フーコーのネオリベ的な側面と言われることもある。だけど、自分の体に気を使うことには二重性があって、ネオリベ的にも取れるけれど逆に抵抗にもなりえると僕は捉えてるんですよ。
ネオリベは精神と身体の総動員体制で、解釈を1つに絞れ、つまり筋トレして瞑想して金を稼げと言ってるわけです。でも、それとは違う形で身体と精神を一致させることができるんじゃないかと思ってるんですよね」
――そのキーになるのはどういうものなんでしょう?
千葉 不合理さ、だと思います。やっぱり人間というのは、無駄なことをするから人間なんです。人間の文化は、自然な流れに逆らって人為的に行うところにある。動物は絶対に筋トレをしないでしょ。人間が人間として生きるには、その人為性っていう次元が大事。無駄をなくすっていうのは、つまり精神的な凸凹をなくしていくこと。でも僕は、その凸凹が大事だと思うんですよ。