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千葉雅也が考える身体と精神のいま。
「効率よく金を稼ぐ体」から離れて。
text by
八木葱Negi Yagi
photograph byKiichi Matsumoto
posted2019/08/15 08:00
身の回りで起きた小さなことの話が、抽象的な論理につながっていく。千葉雅也氏の思考はとんでもなくスリリングだ。
世界と自分がずっとズレている。
――たしかにプロレスは、ゴールというか理想像が1つではない世界ですよね。
千葉 そう、オブセッシブじゃないんです。筋トレを本格的にやっている人の中には、辛そうというか、ストイックであることを目的化しているように見える人も多くて、そうなりたくない気持ちが僕はあります。
ただアメリカのジムで感じたのは多様性が日本の比ではないことで、人種的多様性もあるし体型もいろいろ。アメリカは競争の国である一方で、それぞれが勝手なことをやっている人たちの国っていう面もあって、それがアメリカのいいところであるわけです。
――4カ月のアメリカ滞在日記のような形で書かれた『アメリカ紀行』の中でも、ジムの場面が何度か出てきますね。アメリカ滞在はいかがでしたか。
千葉 僕は、環境が変わるのが苦手なんです。だから『アメリカ紀行』を書いた時にも、日本での生活感覚との違和感がテーマになりました。これは同僚の人類学者の小川さやかさんにも指摘されたんですが、人類学者はフィールドワークの場所に入ったら、現地人になりきってその視点で物を見なければならないとオブセッシブに思っているけど、僕は現地の価値観に入りきれなくて、ずっと距離があるままで、それをそのまま書いているのが彼女にとっては新鮮で、それでもいいんだ! と面白かったそうです。
たしかにそうで、その距離感だからこそ見えるものもあると思うんです。
――たしかにこんなにも滞在地になじまないというか、現地への違和感が何度も登場する紀行文は新鮮でした。
千葉 その世界との距離、乖離というのは僕とスポーツの問題でもあります。走る、ボールを蹴る、相手に飛びかかる時、人は完全なる没入の状態にありますよね。でも僕は、常にそこから引いてしまう。
自分の存在が二重化していて、幽体離脱して状況をメタに見ている自分の方が強くなって、行動する自分が弱くなってしまう。だから、アメリカの生活に溶け込まないこととスポーツが苦手なことは通じているんです。
言語能力と身体能力の両立は可能?
――世界と自分がずっとズレているんですね。
千葉 その乖離した状況のキーになるのが、言語です。メタに自分を見るというのは、言葉を使って自分のことを客観視するということですよね。何かに没入してる時、人は言葉を忘れている。でも僕の場合は常に言葉が湧き出してきてしまって、その言葉の流れにエネルギーが持っていかれて体が止まる。
だからスポーツが得意な人っていうのは、そこでエネルギーが言葉ではなくて体の方に流れていく人なのだと思います。言語のアスリートと、身体のアスリートと言ってもいいかもしれません。
――身体を止めて言語のアスリートになるか、言葉を止めて身体のアスリートになるか、という。
千葉 そうなんです。だから、解釈をどんどん増殖させるような複雑な言語能力と卓越した身体能力っていうのは、おそらく2つに1つで、両立は難しいのではないかと思っています。
哲学者にとっての知性というのは色んな可能性を考えることで、1つの事柄に対してこうも理解できる、でも別のようにも理解できる、と結論を出さずに解釈を増やしていくことです。ただ結論が出ないということは行動を決められないので、体が止まる。体が止まって、頭の中に言葉がどんどん膨らんでいく状態です。