ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
WWE殿堂入りの新間寿とは何者か。
新日本プロレスの「過激な仕掛け人」。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2019/06/28 08:00
アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦するアントニオ猪木。日米プロレスが連係し合った幸せな期間だった。
タイガー・ジェット・シンが一流扱い。
全米の一流レスラーを呼べない新日本は苦肉の策として、アメリカ東部の独立団体NWFを主宰するジョニー・パワーズや、全くの無名だったタイガー・ジェット・シンを“一流”に仕立て上げることで、大物外国人レスラー不足をなんとか補っていたのである。
旗揚げから2年近くは、そんな苦しい時代が続いていたが、74年初頭に新間氏がWWEと提携を結ぶことに成功。ここから新日本は一気に躍進する。WWEは新日本の救世主でもあったのだ。
このWWEとの提携にいたった経緯を新間氏は、こう回想する。
「新日本のブッカーは、旗揚げ当初はカール・ゴッチ。1973年6月からロサンゼルス地区のプロモーター、マイク・ラベールに変わっていたんだけど、私がロスに行ったとき、たまたまビンス・マクマホン・シニアが来ていてね。
そこでマイク・ラベールに紹介されたとき、ダメ元で『うちに選手を送ってくれないか?』と頼んでみたら、快くOKしてくれたんだ。そこから新日プロとWWEの関係は始まったんですよ」
大巨人アンドレの招聘に成功。
そしてWWEと提携を結んだ新日本は、'74年2月、“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの招聘に成功。当時、すでに世界的な超売れっ子レスラーだったアンドレを、日本の中規模団体にすぎなかった新日本が呼べたのは、WWEとの関係があってのものだった。
「WWEと友好関係を結ぶことができたのは、私とビンス・マクマホン・シニアのウマが合ったというのかな。また私自身、ニューヨークの大プロモーターである彼を尊敬もしていたから、そんな態度から信頼を得られて、アンドレも快く送ってくれた。
また、当時のWWEはアメリカ東部だけで興行を行う団体だったから、いかにアンドレとはいえ、毎回出場させたら飽きられてしまう。だから定期的に他の地域の団体に貸し出して、逆に人気レスラーを送ってもらうなど、プロモーター間の交流が活発だったんだよ。それもあって『じゃあ、日本ではニュージャパンにアンドレを送るよ』と言ってくれたんだ」