ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
WWE殿堂入りの新間寿とは何者か。
新日本プロレスの「過激な仕掛け人」。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2019/06/28 08:00
アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦するアントニオ猪木。日米プロレスが連係し合った幸せな期間だった。
WWE参戦は“箔付け”にも役立った。
こうして、WWEからレスラーを送ってもらえるようになった新日本は、見返りとして、'74年3月の猪木戦を機に国際プロレスから新日本に移籍したストロング小林をWWEに送り込む。
アメリカのプロレスは、地域によって好むスタイルが違う。当時のニューヨーク地区は、大味とも思えるパワーファイターが好まれており、そこに小林はハマったのだ。
このストロング小林の成功のあとも、新日本はWWEに積極的に選手を送り込んだが、これは新日本の選手の“箔付け”にも役立った。
「WWEの本拠地だったMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)というのは、文字通り世界の桧舞台。あの力道山もMSGには出たくても出られなかったぐらい敷居の高い場所だったんですよ。だから当時、あのMSGの大観衆の歓呼の声を浴びたことがある日本人は、60年代前半に全米でヒール(悪役)のトップとして活躍した馬場さん、ただ1人だった。そのMSGに猪木さんをあげることができたときは、感無量だったね」
'75年12月、猪木はMSGのリングに初登場する。またこの渡米の際、猪木と新間は極秘裏にモハメド・アリの関係者と会談も行い、これが翌年の“世紀の対決”アリvs.猪木戦につながっていくのだ。
藤波がWWEジュニアヘビー王座を奪取。
その後、新日本は所属レスラーを何人もWWEに送り込むが、最も成功したのは、'78年1月、藤波辰巳(現・辰爾)のWWF(WWE)ジュニアヘビー級王座奪取だろう。MSGという世界の桧舞台で、24歳の無名の日本人がチャンピオンとなる姿は、まさにアメリカンドリーム。その舞台裏を新間氏はこう語る。
「'78年というのは、新日プロとWWEの関係がさらに親密となった年。そのときビンスに、『新日プロ向けに、新しいWWEのタイトルが作れないか?』と相談したんだ。そしたら『いま、ジュニアヘビー級のタイトルが長年空位で眠った状態になっているから、そのベルトはどうだ?』と言われた。
当時、日本でジュニアヘビー級はあまりなじみはなかったけど、軽い階級なら若手の藤波にピッタリだなと思ってね。それで『ぜひ頼む』とお願いして、藤波のタイトル挑戦が決定したんですよ」