ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
WWE殿堂入りの新間寿とは何者か。
新日本プロレスの「過激な仕掛け人」。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2019/06/28 08:00
アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦するアントニオ猪木。日米プロレスが連係し合った幸せな期間だった。
ホーガンを王者に据えたWWEの隆盛。
'78年1月20日、WWEは復活ジュニアヘビー級王座の新王者決定戦を行い、その3日後、MSGで王者カルロス・ホセ・エストラーダvs.藤波辰巳のタイトル戦を開催。この試合で藤波は、初公開の大技ドラゴンスープレックスで見事に勝利した。
WWFジュニアヘビー級チャンピオンとなり人気爆発、日本に“ドラゴンブーム”を巻き起こした。現在まで続く“新日ジュニア”の歴史は、ここから始まったのだ。
その後も、新日本とWWEの蜜月時代は続いたが、'83年に新間が、猪木と共に社内クーデターで失脚し、新日本を退社。翌年にはビンス・シニアが死去することで終焉を迎え、'85年10月の契約切れをもって、提携関係は解消された。
WWEは'82年6月に、現在のビンス・マクマホンが父ビンス・シニアから会社を買収。'83年12月から正式にオーナーとして前面に出るようになり、ハルク・ホーガンをチャンピオンに据え、ケーブルテレビによる全米放送という新メディアの力をバックに全米マットを制圧する。現在は世界一のプロレス団体、いや世界有数のエンターテインメント企業にまで成長した。
猪木を観察して育ったホーガン。
このWWE躍進の原点に、新日本との提携時代があったことも確かだろう。象徴的存在であるハルク・ホーガンは、新日本でアントニオ猪木を間近に観察することで、ベビーフェイスのなんたるかを学び、アメリカで大成功したと言われている。
また、アメリカ東部のいちプロレス団体だったWWEが、エンターテインメントで世界を制圧するという誇大妄想とも言うべき発想は、まさにモハメド・アリをも巻き込んで、世界中にその存在をアピールした猪木イズムそのものだ。
'74年から'85年にかけての新日本プロレスとWWEの提携は、プロレスの可能性を無限に広げる化学反応を起こした。そして両団体は現在も、世界規模でプロレス人気を牽引する存在であり続けているのだ。