プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
長州力、45年のプロレス人生に終止符。
家族のもとに笑顔で帰還できた67歳。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2019/06/27 14:50
英子夫人との間に3人の娘がいる父親でもある長州力。昔はハードスケジュールで家族に苦労をかけたそうだが、現在は円満家族に。
藤波との名勝負数え唄が生まれた瞬間。
その場面に眼の前で出くわした私は、すでに決まっていた藤波との次の試合(広島での開催だった)が流れてしまうのではないか、と心配したのを覚えている。実はこの後、謀反を起こした長州には実際に新日本プロレスの役員会から具体的な処分が出されていた。だが、アントニオ猪木が「気持ちはわかる」とその処分を保留にしたのだ。
喧噪の後楽園ホールから姿を消して連絡が取れなくなっていた長州が、姿を見せたのが数日後の大田区体育館だった。長州が床に置いた大きいカバンの中に試合道具は入っていたのだが……「来るか来ないかわからない人間」(坂口征二)の試合は、この日には組まれていなかった。
会場入りしてからも、長州はずっと下を向いたままだった。
「それで、広島(10月22日)はどうするんだ? もう宣伝して切符も売ってしまっているんだぞ」と、坂口が長州に声をかけた。
少し間があったが長州は返した。
「やります。やりますよ」と、長州は言葉を重ねて答えた。続けて「藤波とは今まで何回かやっている。でも、今までのオレだと思っていたら、彼はびっくりしますよ」と口にした。
こうして、後に「名勝負数え唄」と呼ばれることになる長州と藤波の一騎打ちは、広島の地からスタートすることになった。
「家族へのUターンですよ」
結局、新日本プロレスに対して反旗を翻した長州の暴挙を、猪木だけでなく、一方の当事者である藤波も容認するようになっていた。そのままの流れで長州は「革命戦士」と呼ばれるようになり、絶大な人気を博すようになった。
あれから、もう37年ほども時が流れたことになる。
「もう、やり残したことなんか何もない。これから先のことは何も考えていない。家族へのUターンですよ」
現役生活最後となったこの日。試合が終わってから長州はにこやかに白いタオルで汗をぬぐった。
「最後まで勝てなかった人がいるんですよ。あの人には勝てなかった。猪木会長には勝てなかった。
あの頃、猪木さんは1人で会場を支配していた。古い記者の人たちはわかると思うけれど、猪木さんは24時間プロレスのことを考えていた。直接、教えてはくれなかったけれど、リングサイドでそのすごさを学んだ。でも、あの人のプロレスを到底越えることはできなかった。この(自分の引退の)6月26日が決まってから毎日のように猪木さんが頭に浮かんできたんですよ」
長州は誰から問われたわけでもないのに、最後の最後に、猪木の凄さを口にしていた。